2011年11月19日土曜日

渡部昇一『日本史』を読んで日本人はどうあるべきか考える(79) (20111119)

 “徳川慶喜(よしのぶ)が慶応(けいおう)三年(一八六七)に大政奉還を申し出る。これは土佐の山内容堂(やまうちようどう)の案であったといわれるが、おそらく後藤象二郎(ごとうしょうじろう)の意見であろう。慶喜にしてみれば、政権を返上しても、ほかに誰も政治をやった者がいないのだから、自ずと徳川家が再び政治を執り行うことになるであろうと考えていたようである。ところが、これは徳川家にとって致命的な失敗だった。なぜ失敗なのかと言えば、ひとたび政権を返上してしまえば徳川家はほかの大名家と同列の立場になってしまうからである。それに慶喜は気づいていなかった。

 慶喜の大政奉還の申し出を受けて、同年十二月九日に王政復古の大号令が発せられた。それと同時に、幕府が政権を朝廷に返し、慶喜が将軍を辞職した後をどうするかを話し合うために京都御所の小御所で会議が開かれた。これが「小御所会議」といわれるものである。

 小御所会議には皇族や公家の代表、主な大名およびその家来が集まった。また明治天皇が初めて御簾(みす)の奥にご出席になった。近代日本の最初の御前会議である。だが、ここに大名中の大名である徳川慶喜は呼ばれていなかった。

 これを見た山内容堂は「この会議に慶喜を呼ばないのは何ごとであるか。ここに集まる者たちは天皇がお若いのをいいことに、自分が天下を取ろうとしているのではないか」という発言をする。その言葉じりをとらえて公家の代表として出席していた岩倉具視(いわくらともみ)が「天皇がお方である。なんたる失礼なことをいうのだ」と怒ってみせた。

 天皇が若いことを理由にするのは、天皇が頼りにならないといっているようなものである。それに気づいた山内容堂は恐れ入って、それ以上発言できなかった。

 それを見て、今度は大久保利通(としみち)が次のように発言した。「慶喜がここに出席するためには、まず慶喜が恭順の意を示し、徳川の領地をすべて差し出すべきではないか」と。そこから会議は岩倉・大久保の線で慶喜討伐まで一直線に突き進むのである。

 小御所会議は「山内容堂・後藤象二郎に対する岩倉具視・大久保一蔵(いちぞう)(利通)四人の決闘だった」と徳富蘇峰はいっている。蘇峰は、小御所会議で無記名投票が行われれば、公武合体のほうに動いただろうと推測しているが、山内容堂の発言にかみついた岩倉と大久保の議論で「公武合体」は「倒幕親政」へと変わってしまったのである。

 TPP参加を表明した野田総理はTPP参加9カ国の会議に呼ばれなかった。この9カ国の会議は「小御所会議」のようなものである。日本が徳川慶喜、アメリカが明治天皇、他の8カ国は最後の将軍徳川慶喜以外の大名や公家の代表に相当する。そしてアメリカ政府の意思決定に関わる役人が大久保利通のようなものである。

 アメリカ政府の意思決定にかかわる役人は、日本がTPPに参加しても決して日本の思うようにはさせないと考えている。徳川慶喜は天下の将軍であっても天下を自分の都合のよいように動かすことができるほどの武力を保有していなかった。日本もアメリカの核の傘に守られ、アメリカ軍の打撃力に守られてやっと専守防衛ができている程度の力しか持っていない。                        (続く)

0 件のコメント: