2011年11月15日火曜日

渡部昇一『日本史』を読んで日本人はどうあるべきか考える(75) (20111115)

 “尊王攘夷(そんのうじょうい)論が公に語られるようになったのは、幕府が開国と修好条約の締結について独自に決められず、諸大名の意見を聞き、朝廷にお伺いを立てて却下されたことがきっかけになったといってもよい。しかし、そういう尊王攘夷論の思想のもとになる国体観というものは、それより以前にじわじわと発達していた。

 これは大きくいえば日本の歴史が意識されたということで、大きなものでいえば徳川幕府の天下の副将軍、徳川光圀(みつくに)が作った『大日本史』の存在がる。これは神武(じんむ)天皇から南北朝の統一までの歴史を紀伝体で記した歴史書である。『大日本史』は普通の人が手に入れて読むような本ではなかったが、一般に広く流布した本もあった。頼山陽(らいさんよう)の『日本外史(日本外史)』である。これは平家の勃興から徳川十二代将軍家慶(いえよし)にわたる武家の歴史を家系ごとの列伝体で書いた歴史書で、講談的な面白さがある。

 この『日本外史』を松平定信(まつだいらさだのぶ)が読んでみたいと言い出し、求めに応じて頼山陽は大名家の儒者の子供であったから、徳川家の不興を買うようなことは書かない。しかし、松平定信に渡した原稿は、将軍家に触れるときは改行して他の文書より一字上げて書き、朝廷について書くときは二字上げて差をつけている。これによって、読んでいると幕府の上に皇室があることが自然にわかるようになっているのである。

 また、徳川家康について書くときに、初めの頃は「少将殿」という呼称になっているが、偉くなるに従って「徳川中将」「内府」というように書き方を変えている。これは当然なのだが、読むほうとすれば、どうして位が変わるのかと考える。そしてだんだんと皇室から位をもらっていることに気づくのである。

 この『日本外史』は幕末から明治にかけて非常によく読まれた。すると『日本外史』を読む者には、幕府の上に天皇があって、天皇から位が来ているらしいというような関係がなんとなくわかってくるのである。そして将軍は元来、天皇の持つ政治権を奪っているものであるという認識が広がっていくことになる。幕府にもそうした認識があったからこそ、鎖国をやめるかどうかというときに皇室の意見を聞こうという意見が出たと思うのである。

 この『日本外史』の次に頼山陽は『日本政記(せいき)』を書いた。これは天皇家の歴史を中心にして神武天皇から第百七代後陽成(ごようぜい)天皇の時代まで、つまり秀吉の第二次朝鮮出兵の終結までお取り上げた通史になっている。分量的には『外史』の半分くらいだが、『外史』が武家政治の時代からはじまっているのとは内容を異にする。

 この『日本外史』と『日本政記』は維新の志士の必読書となり、木戸孝允(たかよし)も伊藤博文も影響を受けたといっている。(後略)”(以上、渡部昇一『決定版 日本史』)

 日本は武家の時代でも神武天皇以来男系でつないできた天皇がいる国である女性の天皇が何度か出たが、それはあくまで神武天皇以来の男系につなげる役割を担っていた。「女性」と「女系」は違う。「女系」になるとその天皇以降、その天皇の母親のミトコンドリアが遺伝していゆくが、神武天皇のY染色体遺伝子はその時点で途切れてしまうことになる。そのような事態は絶対に避けなければならない。      (続く)

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