2011年11月20日日曜日

渡部昇一『日本史』を読んで日本人はどうあるべきか考える(80) (20111120)

 “小御所会議のあと、すぐに新政府軍と旧幕府軍が衝突した鳥羽伏見の戦いが起こる。このときはまだ幕府軍の数は多かったが、慶喜に戦う気がなかったうえに、薩長軍の鉄砲は新型で射程が長かったため、幕府軍はあっさり負けてしまう。大阪城に籠城して戦おうとした幕府方の人間もいたが、気がついてみたら、大阪城にいた慶喜は戦いを放棄して軍艦開陽丸(かいようまる)で江戸へ逃げ帰ってしまっていた。慶喜は水戸の出身だから光圀(みつくに)以来の尊皇的な思想が強く、「錦(にしき)の御旗(みはた)」を掲げる「官軍」と戦うことを好まなかったのである。そして江戸に戻ると、恭順の意を示して江戸城から立ち去ってしまった。

 もしこのとき慶喜が戦う気を見せていれば、日本は内乱状態になっていただろう。勝敗もどちらに転んだかわからない。というのは、薩長方に軍艦がほとんどなかったのに対し、幕府は何隻もの軍艦を持っていたからである。すると、江戸に攻め上がった官軍は、箱根あたりで幕府軍と衝突し、そこで幕府軍が頑張っているうちに幕府の戦艦が大阪あたりに逆上陸して後方を押さえれば、官軍は干上がってしまう。実際、幕臣の小栗上野介(おぐりこうずけのすけ)は主戦論を唱え、そういう案を出しているのである。

 しかし、「ぜひ戦わせてくれ」という小栗を振り切って、慶喜は退いてしまう。すると今度は、その志を受けた勝海舟(かつかいしゅう)が西郷隆盛と一対一で話し合って、江戸城を無血開城してしまうのである。

 その後も東北・北海道を戦場に戊辰(ぼしん)の役が起こっているが、もはや歴史の流れに逆らうわけにはいかなかった。榎本武陽(えのもとたけあき)がたてこもった函館(はこだて)の五稜郭(ごりょうかく)にしても短期間で落ちるし、東北地方で頑張った庄内藩も降参して終わるのである。

 これを革命といってもいいと考える歴史家もいるようでだが、私は革命を起こされた側のトップに君臨する慶喜が殺されず罰せられないのだから、革命といえないのではないかと思う。日本の歴史に独特な「国体の変化」というべきであろう。

 ただし、勤皇側が特に憎んだ人物が二人いた。先の小栗上野介と京都で志士たちを斬りまくった新撰組(しんせんぐみ)の近藤勇(こんどういさみ)である。この二人は殺されているが、これは例外といってよいだろう。”(以上、渡部昇一『決定版 日本史』より)

 勝海舟と坂本龍馬は元治元年(文久四年)(1864年)2月から4月にかけて行動を共にしている。その間、216日、二人は当時熊本藩領地であった鶴崎(現大分市)の本陣に宿泊している。その時、勝海舟は「大御代は ゆたかなりけり旅枕 一夜の夢を千代の鶴崎」と歌を作っている。海舟はその6年前の安政53月、鹿児島で薩摩藩主・島津斉彬に拝謁している。江戸城無血開城の決定はその2年後の明治元年(1868年)314日、江戸田町薩摩藩邸における西郷吉之助(隆盛)・勝海舟会談で決定されている。西郷吉之助はその2日前に勝海舟に「会おう」と手紙を書き、板垣退助には「勝手に動くな」と手紙を書いている。かくして吉之助・海舟両雄共通の「外国の介入は後世に汚点を残す」とする認識どおりに事が運んだ。内戦もなく皇国の「大御代」は守られたのである。    (続く)

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