2012年3月28日水曜日


叔父のこと(20120328)

 男の叔父は一昨年秋他界した。叔父は男の父親のすぐ下の弟であった。昭和19年の初夏の頃だと思う。ここに一枚の古い集合写真がある。それはその叔父が祝言を挙げたときのもので家族・親族一同が男の祖父の家の庭で写っている写真である。中央にその叔父夫婦、その両脇に男の祖父母、祖父の隣に男の親父、後ろに男の母親が一番末のまだ1歳の妹を抱いて写っている。男の親父はそのころ朝鮮のある国民学校の校長と青年訓練所の主事をしていて意気軒昂の風で鼻の下にちょび髭を蓄え、恰幅が良かった。母親もきりっと引き締まった容貌をしていた。

 その叔父は男に従兄弟・従姉妹の会をつくるように期待していた。奇しくもその会が叔父の葬儀のときに出来た。全員集まってはいないが七人の侍よろしく中央に男、左右に3人づつ従兄弟たちが、皆揃った白Yシャツ・黒のスーツに黒のネクタイ姿で写っている。丁度秋の穏やかな日差しをうけ、斎場の庭の緑の樹木の前で一列に並んで写っている。

 その従兄弟たちの中に二人だけ男にとって初対面の者がいる。叔父の子供たちである。初対面と言っても子供の頃一度会っている。男は葬儀の夜誘われるままに叔父の長男の家に泊まった。そしてその家族と知り合い、叔父の二男父子とも知り合った。子たちは男から見れば甥っ子・姪っ子にあたる。叔父は「あの世」に行ってそのような「縁」をつくった。その「縁」は大事にしなければならない。男から見れば皆わが家系につながる一族である。男の遠い先祖が一族の「縁」を大事にしてきたように、わが家系につながる一族の「縁」を大事にすることは、男が自覚する男の「この世」における役割である。この役割をきちんと果たさなければ男は「あの世」には行けないと思っている。

 男の家は戦後の混乱の中、滅亡寸前まで行った。男が子どものころはまだ一族の結束は強かった。強かったから男の父親の末弟が事業に失敗して家屋敷まで失うところを一族が金を出し合って辛うじてそれを残すことができた。戦争に負けなければその末弟の叔父も武士の商法のような慣れない事業に手出しをすることも無かったであろう。

 男の女房も似たような境遇である。女房の父親は終戦1年前病没している。昭和30年前半頃までその父親の実家は資産家であった。広い家屋敷を持っていた。しかし同じように跡取りでない末弟が事業に失敗して家屋敷を失い一家は離散してしまった。家族制度が変わり家督を継ぐ者がしっかり家を守る仕組みが無くなってしまい、遺産相続の平等主義が災いを引き起こした。このため旧家がつぶれるような事態が戦後あちこちで起きた。

 他界した叔父は終戦後戦地から引き揚げ、いろいろな仕事に就いて食いつないでいたがようやく身を立て成功者となって他界した。男の父親は弟である叔父のことをいろいろ心配していた。そのことを記した手紙が残っている。

 男は長男である。家系を守り一族の繁栄を願い、先祖の祭祀を行うという責任感を持っている。それが自分の「この世」における役割であると自覚している。今時そのような考え方をする者は少なかろう。しかし男は自分の子孫や一族の繁栄のため、そういうことをしなければならぬと思っている。