2011年3月16日水曜日

松陰と高須未亡人(20110316)

 NHK出版『女たちの明治維新』(鈴木由紀子著)という本がある。ここに、吉田松陰と交流があった高須久子の話が出ている。

 高須久子は、300石あまりを食む長州藩士・高洲(須)五郎左衛門の娘で、31歳の時寡婦になった女性である。父も夫も亡くなった後、娘と二人暮らしをしながら三味線などの芸事を好み、被差別部落からやってくる芸人・弥八や勇吉に流行歌を弾かせたり、人形芝居などをさせ、近所の人たちにも見せてやっていたという。弥八は美男であったらしい。

被差別部落の者と親しくなったことが当時の身分社会のなかで厳しく咎められ、野山獄という独房の牢獄に入れられた。軽輩の者は岩倉獄という雑居牢に入れられたが、身分の高い者(士分)は独房に入れられた。松陰も密航の罪で同じ牢獄の東角部屋に入れられた。

当時の牢獄内では出入り自由であったが、脱獄すれば当然厳しく処断されるからそれはできない。しかし、牢獄内で俳諧の会の開催や著述や講義などを行い、囚人同士交流したり、牢番・司獄(当時の刑務官)が俳諧の会や講義に参加することは自由であった。教材は松陰の家族が差し入れた。松陰は当時のずば抜けた知識人であったから、松陰のもとに囚人が集まり、時には時局の論談もしたという。

高須久子は松陰より一回り上の年長であったが、松陰と深く知的な交流をし、松陰との間で交わした俳句が残されている。以下、上記の本に出ている句を幾つかここに記す。

獄中俳諧を編んだ『賞月雅草』にある俳句と短歌;
  名月に   香は珍しき 木の子かな     松陰
  宇治の茶の 絆なりけり けふの月      久子
  武士(もののふ)の 心勇ます 轡虫(くつわむし)
              いづくを見ても 秋の淋しさ    松陰
酒と茶に 徒然(つれづれ)しのぶ 草の庵         松陰
              谷の流れの 水の清らか      久子

当時の社会秩序は、「役割」で分けられた身分の差を維持することで守られていた。そういう中、松陰や松陰の母・滝や久子のように、身分差を超えて、一個の人間として低い身分の者にも暖かい眼差しを向けた人びとが多数いた。それが、封建社会から民主主義社会に、ある意味では「無血」で変革させる原動力となったと言えるだろう。

今の時代、この日本では一切の身分差はなく、職業上の差別はなく、誰でも勉学に励み、努力すれば、それなりの社会的地位につくことができる。人びとに求められているのは、「自助」「自己責任」「役割の自覚」などの徳目である。

今回の東北関東大災害において、日本人はそれらの徳目をもって行動していると思う。世界中の人びとが、日本人の「秩序」に感嘆している。昔の「士分」階級が残した武士道は、決して廃れていなかった!

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