2010年11月7日日曜日

弁当サービス(20101107)

  昨日(6日)夕方、民生委員のIさんが継母に弁当を持ってきてくれた。弁当は5の付く日の夕食用としてこの町のボランティア団体が作って届けてくれるものである。

  9月に継母が熱を出してヘルパーさんから連絡を受け、女房と二人で急きょ帰って来ていたときIさんが玄関のベルを鳴らした。出てみると「民生委員のIと申します。何度も来てみましたがお留守のようなので心配だったものですから」という。継母はかかりつけの先生の病院に入院させていた。ヘルパーさんから連絡があった日丁度土曜日だったがその病院に電話を入れ、入院させて欲しいとお願いした。そして懇意にしているタクシー会社に電話を入れ、継母を病院に送って欲しいとお願いした。タクシーの運転手さんは玄関まで入り継母をタクシーに乗せ、ヘルパーさんが病院まで付き添ってくれた。

  男が民生委員Iさんに会ったのは初めてである。Iさんは「お母様に隣のお惣菜屋さんで何か食べ物を買って来ようと思いましたが、好みがわからないのでためらっていました」と言う。Iさんはボランティア団体が行っている弁当サービスのことを話してくれた。女房はIさんからその話を聞いて即座にそのサービスの提供をお願いした。

    女房は行政が関わっているホームヘルプサービスの団体に初めから参加して、10数年以上長年お年寄りの家の家事援助サービスに関わり、放送大学で社会福祉関係のことを学び、介護福祉士の資格も取得したその道のベテランである。今は退職したが、もともと女房がホームヘルパーをしようと思い立ったのは継母の老後のことを思っていたからである。

  男の継母は女房の実母である。女房はその母とは9歳の時以来同じ屋根の下に住んでいない。女房にとって育ての親はその母の実家の人たちである。女房はその家で祖母や叔父・叔母たちの顔色を窺いながら暮らしていた。

    Iさんのお宅は継母の家からそう離れていないところにある。男と女房はIさんのお宅に伺い、いろいろ話をした。Iさんは男とほぼ同年のようである。二人は良いお方に巡り合ったと喜んだ。

    男は弁当の中身に興味があった。ご飯を入れる器、お惣菜を入れる器、そしてスープを入れる器の3点セットである。器の姿・形も品が良く、なかなか機能的にできている。ご飯は五穀米を炊いたものであった。お総菜は5品以上、栄養バランスもよく考慮されている。スープは豆腐や野菜など刻み食のように小さくしたものがぎっしり詰まっている。月3回、月末に支払うのであるが、1回400円である。これは非常に良いサービスである。都会地では到底このような弁当をこの値段で配ることは考えられない。男はこの弁当を取るようにした女房にその中身を見せてやろうと、継母に断り最初に写真を撮っておいた。

    この町は高齢化が進んでおり、65歳以上が人口の約30%を占めて、その割合が年々増え続けている。この町に郡内の医師会が設立し、運営している老人健康保険施設があり、継母は月6回、この施設でデイサービスを受けている。その内容はさすが医師会がやっているだけあって非常に良い。運動も食事も娯楽もすべての面で徹底している。以前、継母はこの施設に数ヶ月間入所していたことがあった。個室はまるでホテルの一室のようである。風呂は温泉で継母は「一番風呂に入れて貰った」とよく喜んでいた。継母はゆくゆくこの施設に入りたいと願っているが、そうは行かない。継母は現在要支援2のレベルである。

2010年11月6日土曜日

親族の写真(20101106)


  男は叔父の葬儀に出るため急いで準備していたとき、肝心の数珠を入れるのを忘れたがデジカメは忘れなかった。そのカメラで撮った多数の写真はデジカメのSDカードに保存されている。しかし保存媒体としてそのSDカード1枚だけでは不安である。そこで男は写真をパソコンのデスクトップと持参したUSBメモリにも保存した。

  男はこの携帯用のノートパソコンに保存した写真を継母に見せてあげた。叔父の葬儀に出ることができなかった継母は、パソコン画面上に拡大した写真を見てとても喜んだ。継母は仏事に出なくてもこの土地のしきたりに見合った金額の香典を出している。叔父の葬儀に男は 継母と弟の分の香典を持って出席した。「とても立派な葬式だったよ」と話して聞かせるだけでは継母もつまらないだろう。パソコンの画面上とは言え、こうして実際に写真を見せてあげると継母は頭の中で自分自身がその葬式に出席していたような気分になると思う。男はそこまで考えてデジカメを持参したわけではないが、写真に写った人に写真を送ってやって喜んでもらおうと単純に考えて写真を撮ったのであった。

  男は沢山撮った写真の中から良いものを厳選してPicasaウエッブアルバムに入れ、写真に写っている方々にそのアルバムにアクセスして貰って見て貰おうと思った。男が横浜に帰るのは1週間先である。横浜に帰ってから写真を現像してそれぞれ送ってあげるが、その前にパソコンを持っている人には今夜にでもそれを見ることができる。勿論葬儀に参加しなかった弟には見せたいと思う。URLを教えられた人にしかその写真は公開されない。

  男は今日午前中温泉に入った。人口1万7000人の山間の盆地にあるこの町には、あちこち天然の温泉が湧き出ている。入浴料300円でかけ流しの温泉を楽しむことができる。このような温泉は老人の家から近いところにもあるが、天気が良いので男は自転車を踏んでちょっと遠いところにある温泉に行った。

    その温泉は12時から入れるが、男はそのことを知らなかったので11時過ぎその温泉に着いた。事務所には誰も居ず、女性が一人で浴場の清掃作業をしていた。「まだ開いていなかったんだね」と老人が言うと、その女性は「ちょっと待って下さい、湯の温度を確かめます」と言って男湯の方に入って行った。やがて出てきて男から百円玉3個受け取った。老人は4畳半ほどもある広い湯船を独占して、ゆったりと温泉を楽しんだ。

    温泉を楽しんで家に帰るとYouTubeで尖閣諸島で中国の漁船が我が国の巡視船にぶつかってきた映像が流れたことが報道されていた。この間国際テロに関する情報収集のデータがネット上に流れた。我が国の情報管理や国益を守る意思はどうなっているのか不安になる。先日ロシア大統領が我が国の北方領土を公式訪問し、その上、そのことに一切触れずに親書を送ってよこした。我が国はなめられているのだ。

    尖閣諸島の領土・領海を守るため、海上保安庁の保安官や海上自衛隊の隊員らは命をかけて我が国の国益を守ろうとして頑張っているのに、あの仙谷官房長官や仙石氏に繰られているかのように見える菅首相は余りにも市民目線でリベラリスト過ぎる。

2010年11月5日金曜日

だんご汁(20101105)

  亡くなった叔父の縁で今まで会ったことがなかった従弟の家に泊った。その家で全く気兼ねもなく楽しく過ごした。初対面だった従弟の嫁さんにも、また娘さんにも、飼われている犬にも全く不思議なくらいに心理的な垣根が無かった。叔父の生前、叔父の思いが一方通行だった甥っ子である老人が、叔父が他界して其処に姿が見えないのに、あたかも其処に叔父がいるように、今度は男があの世にいる叔父に対して一方通行の思いを致している。これが「不思議」である。その叔父よりも年下であったが既に他界しているもう一人の叔父の妻が、男に「それがご縁なのよ」と真剣に言う。男もそう思う。

  男は叔父の遺骨が安置されているそばで休んだ。従弟の嫁さんが男の寝どこの準備をしてくれているそばで、叔父の遺骨が安置されている祭壇に向かって、線香を灯し、鐘を鳴らし、「南無阿弥陀仏」と声を出しながら手を合わせ、そのご縁のことを感謝した。

    今日4日も秋晴れの良い天気である。男は従弟の車で送られて駅に向かった。途中、叔父の遺骨が納められる新しい墓所に立ち寄った。従弟が2年前に造ったという立派なお墓に巻いた。その新しいお墓の主として、この地に礎を築いた叔父の遺骨が納められる。

    従弟は叔父の長男として立派にその役目を果している。昨日、火葬場で撮った従兄弟たちの集合写真が完成したら、従弟に依頼してその写真をその墓前に報告して貰おうと思う。従兄弟会を作れ、というのが叔父の生前の思いであったから、あの世で叔父は喜ぶだろう。

    男は2時過ぎに継母が独り住まいしている家に着いた。継母はデイサービスに行っている。お天気が良いので男は継母のベッドの寝具を日に干し、近くのデパートで茶菓子一箱を買いそれを持ってホームヘルプサービスを提供してくれている社会福祉法人の事務所に行った。目的は日ごろ継母が世話になっているお礼かたがた男が滞在中は継母へのホームヘルプサービスを断るためである。もともと家族がいるときは介護保険によるサービスは受けられないことになっている。

    帰りにACOOPのスーパーに立ち寄りだんご汁の材料や果物などを買い込んだ。男はだんご汁が大好きである。だんご汁は大分名物である。男料理のだんご汁は中身が豪快である。玉ねぎ、人参、ジャガイモ、かぼちゃ、茄子、ピーマン、豆、肉、いわしのつみれ、いりこ、竹輪、かまぼこなどなどなんでもごっちゃに水煮して素材の旨味を十分引き出す。そして団子を伸ばして入れ、味見しながらフンドーキン味噌を加え、良く煮る。団子は強力粉をしゃもじ山もり一杯ボウルに入れ、微量のグリセロリン酸カルシウムが加えられるアルカリイオン水を加えて練り、親指サイズにちぎってだんご状にして、熟成のためしばらく寝かせておき、それを引き延ばしながら程度の長さにちぎったものである。

    デイサービスから帰って来た継母は、「デイサービスで美味しいものを食べておなかがいいから夕食は要らない」と言っていた。しかし、どんぶり茶碗に盛っただんご汁をみて「おいしそうだね」と言う。男が「食べる?」と聞くと「ちいっとでいい」と言うので、どんぶりお茶碗に少しいれて差し出した。継母「これは美味しい」とかなり食べた。


2010年11月4日木曜日

従兄弟たちの集合写真(20101104)

 3日、とてもよいお天気に恵まれた。男は福岡の叔父の葬儀に参加して以前叔父が望いたことを実現させることができた。叔父は従兄弟たちの集いを望んでいた。奇しくも叔父の葬儀の日、その叔父の願いがかなった形である。火葬が終わったあと明るく穏やかな日差しの中で、男が持参していたデジカメのシャッターを他の人に押してもらって、男がこれまで一度も会ったことがなかった従弟たちも一緒に従兄弟7人の集合写真を撮った。

 世の中には不思議なことが起きる。不思議なことが起きたときそれが偶然に起きたと考える人が多いだろう。しかし男は、それは決して偶然ではなく、起きるべくして起きた必然のことであるといつも思っている。この日、男が願っていたとおりの写真ができた。

 男は家に帰ったら写真を現像して皆に送ってやろうと思う。男は勧められるままに無くなった叔父の長男になる従弟の家に泊った。遠慮がないと言えばその通りである。家に帰ったら女房からきっと叱られるであろう。

 しかし、世の中には余計な気遣いをしない方が良いことが多い。人はお互い迷惑をかけあいながら暮らしている。迷惑をかけないようにしていても時間軸の中でどの時点かで必ず迷惑をかけるものである。無心に、気の流れに逆らわず、融通無碍に生きた方が良い。

  初めて会った従弟の家に遠慮なく泊めさせてもらって、いろいろ話ができて良かった。これから先の時間軸の上で皆幸せになるだろう。明日、男は独り暮らしの継母の家に行く。継母はデイサービスに行っているが男は合鍵を持っているので先に帰って、継母の帰りを待つことになる。仏壇に手を合わせ、亡父に今日のことを報告しよう。亡父も10歳年下の叔父の葬式に老人が参加して喜んでいると思う。

2010年11月3日水曜日

帰郷(20101103)

    福岡に住む叔父が90歳で他界した。肺炎だったという。その叔父は男の亡父より10歳年下である。男はその葬式に出るため急きょ帰郷した。羽田から大分に飛び、別府で一泊して翌朝特急に乗り、11時からの葬儀に間に合うようにした。

    73歳の男は叔父が死んだという話を今朝聞いた。初めは遠いので香典だけ送って帰らぬつもりだった。しかしその叔父は男の父が30数年前死んだとき亡父の葬儀に来てくれた。男の亡父も長男であったし自分自身も長男である。長男は長男らしく振る舞わなければならない。これまで遠方に住んでいるという理由で親戚には相当義理を欠いてきた。自分自身もあの世が近い。これまでの不義理はこれから良く義理を果たすことで帳消しにしてもらおうと考えている。従兄弟たちも福岡で老人に会うのを楽しみにしてくれている。

   男はインターネットで航空券とホテルとJR九州の特急列車の指定席を予約した。今まで全く念頭になかったが、今回初めてスカイネットアジア航空(SNA)を使った。理由は65歳以上片道14100円で安いからである。羽田発17時25分発大分行きに乗った。以前はANAでも機内サービスでコーヒーなど出してくれたが経費節減でそれが無くなっている。しかしSNAではそれがある。飛行機はコンパクトで座席は左右3席づつである。機内のアテンダントは女性が二人だけである。無駄が一切ない快適な空の旅であった。

   大分空港に着いて手荷物を受け取り表に出るとバスが待っている。別府・大分行きのバスに乗る。料金1450円で別府北浜に着く。予約したホテルは別府駅近くのビジネスホテルである。北浜からそこにゆくのに徒歩で10分ほどかかるが、北浜のバスターミナルではタクシーが待ってくれている。ホテルまで620円。ホテルはじゃらんのポイントを使うので朝食付きで4000円ほどである。ホテルの部屋に荷物を置いて遅い夕食をとりに出る。駅の建物内にある「豊後茶屋」という店で大分名物のだんご汁とやせうまを取る。味は、ま、こんなものかな、という程度であった。老人の方がもっと美味しく作れるだろう。

   男は九州に帰ったときいつも感じることがある。それは、其処が自分の生まれ故郷であり、竹馬の友が居り、従兄弟・従姉妹たちが居る土地であり、横浜や東京などの大都会と違う雰囲気が漂うところである。暖かなやさしさを感じるところである。都会地は都会地でいいところも多い。便利で機能的で人間関係のわずらわしさもない。しかしそのような都会地からときどき九州に帰ると、何故か心の安らぎを感じる。

    男は此処に主たる住居を移し、都会地との間を逆方向にときどき移動する生活を夢見る。つまり7割大分に住み、3割横浜に住む。ときどき大分空港から羽田空港に向かう。今と逆である。大分で晴耕雨読の暮らしをし、たまに都会地に出て刺激を受ける。やろうと思えばやれないことはない。住む家もある。庭で多少の野菜は作れる。借りる土地はある。

    男はホテルの部屋でそのようなことを夢見ながらブログの記事を書いていると、携帯電話のベルが鳴った。女房からである。男は今夢見ていたことを女房に語った。女房は笑いながら「お母さんと一緒に住んだら」と言う。男は明日夕方その継母・91歳に会う。

2010年11月2日火曜日

沖縄の問題(2)(20101102)


  以下は先月25日の記事の続きである。翌26日の「90年世代」、28日の「沖縄の問題」、29日の「特攻」に関連する記事でもある。

  『歴史通11月号』(ワック出版WiLL発行)に沖縄県コザ市生まれ、78年防衛大学校卒業、82年2等海尉で退職後、琉球銀行等を経て現在拓殖大学客員教授である恵隆之介氏と前航空幕僚長田母神俊雄氏との対談記事が出ている。恵氏はその中で「沖縄県知事選」のところで書いたこと以外に次のことを言っている。もし、沖縄の現状がそのとおりならば、全国民はその実情を知らなければならない。おそらく官房長官のもとには沖縄に関し各種情報が上がっていることであろうが、多くの国会議員は知らないだろう。このことは是非知って貰いたいことである。

  折しもロシアのメドベージェフ大統領が我が国の北方領土を視察したという。ロシアは当時のソ連の中心の国であった。ソ連は1945年(昭和20年)8月1日日本に宣戦布告し、14日に日本がポツダム宣言の受諾を決定した後、同年8月28日から9月5日にかけて北方領土に上陸し占領した。このとき日本軍は物資や戦力が不足するなかでも激烈に抵抗し、多数の死傷者を出しながらもソ連軍の北海道侵攻を食い止めた。樺太(現在のサハリン)・千島の防衛で命を落とした日本軍将兵は約3700人であった。

  択捉・国後の二島はかつてロシア領になった事はなく、日本固有の領土であった。ヤルタ協定でソ連に「手渡される」ことになっていた千島列島にこの2島が入っていない。この二島については、ソ連軍は当初アメリカ軍がやってくると様子見であったがアメリカ軍が来ないと知るとその二島どころか9月1日と4日に歯舞・色丹の二島に占領し、住んでいた日本人を追い出してまった。

    左翼・マスコミはこのような北方領土における歴史的事実には全く目を向けず、沖縄のことばかり書きたてている。このことを恵氏は同誌で指摘している。以下その要約である。

平成9年、橋本首相が左翼勢力に譲歩し、総務省管轄の基地交付金70億円を設定した。これは使途自由である。反対派の活動資金の温床ともなっている。沖縄でデモに参加すると最低でも日当3千円、幹部なら2万円もらうことができる。

今、沖縄ではテレビ局が毎日沖縄戦の被害を10分間放送している。中国に関しては親中国のムードを作っている。

沖縄の学校教育は反日反米である。

日本国民と沖縄県民との分断工作こそ中国が仕掛ける罠である。

⑤ 左翼勢力は、沖縄戦において日本軍が島民民を虐殺したとか、戦う相手は米軍ではなく日本軍だったとか、ものすごい反日プロパガンダを小学生に行っている。

今沖縄県で97%のシェアをもつ地元二紙は、明らかに県民を親中国に誘導している。

⑦ 戦後復原された首里城の玉座は北京の方向を向いている。

  この事実を多くの日本国民はどう思うか。左翼勢力は沖縄に集合し、反国家権力闘争を行っている。国会でもとりあげられたが、過去に反日運動に加担していたことがあった岡崎トミ子国家公安委員長は、この問題をどう扱おうとしているのだろうか。

2010年11月1日月曜日

老朽化と死に支度(20101101)


  人間の体も一種の精巧な機械である。機械は長時間作動させ続けると徐々に老朽化してゆく。人間の身体の細胞は定期的に入れ替わり、怪我などで死んだ細胞が新しい細胞と入れ替わる。機械の場合は部品を取り換える。しかし人間も機械も寿命がある。

  機械は大事に使えば長持ちする。人間という機械も同様である。無理をすれば寿命が短くなる。かつて鉄道で使われていた蒸気機関車は退役後あちこちで展示されているが、鉄でできているため錆が進行し、いずれぼろぼろに壊れてしまう運命にある。人間も物質でできている以上、朽ちて姿・形が無くなって行く。人間は土から生まれ、土に還るというが、そのとおりである。

  一般に人間は73歳までは元気だという。73歳を過ぎると病気になりやすいのだという。老人は今73歳である。来年の誕生日以降老人の身体に何が起きるかわからない。気をつけなければならない。免疫力が低下すると途端に体調を崩しやすくなるだろう。「年寄りの冷や水」という諺があるが、年寄りは見かけが元気そうでも無理は禁物である。

  森重久弥は天寿を全うして他界したと言う。天寿を全うするということは、何も長生きしたというだけのことではない。人生において為すべき役割を果たしたということである。他界する年齢には全く関係がない。老人も今自分の役割を果たそうと日々心がけている。

  時間は誰にも共通である。人によって一日が例えば22時間であったり26時間であったりすることはない。誰にも共通の24時間である。この時間をどのように割り振って一日を過ごすかということが重要である。現役世代では、働くことに多くの時間を割かなければならない。例え自分が為したいことが別にあったとしても、働くためにその為したい願望を胸に秘めながら一生懸命働かばければならない。働くことがその時期の役割である。

  田舎のわが家の玄関の上り口の直ぐ見える所に、亡父が徳川家康公の遺訓を書いた札を掲げてある。老人は今、改めてその遺訓をかみしめている。遺訓は「人の一生は、重荷を負うて遠き道を行くが如し、急ぐべからず。不自由を常と思えば不足なし、心に望み起らば困窮したるときを思い出すべし。堪忍は無事長久の基、怒りは敵と思え、勝つことばかり知りて、負けることを知らざれば、害その身に至る。己を責めて人を責めるな、及ばざるは過ぎたるより勝れり。 」というものである。

  73年間動いてきた自分の体という機械は徐々に性能が低下し、機能が衰えてゆく。性能や機能の低下に対処して、道具や器具をうまく使ってゆこうと考えているが、そのうちにその気持ちも思考力も衰えて行く。つまり、体力も気力も知力も衰えてくるのである。遂には他人の助力を受けることなしには生きて行けなくなってくる。その日はいつか?

  老人は日々あの世に行くための支度をしてゆこうと思い日々を過ごしているのであるが、出来栄えは7割で十分だと思っている。7割できれば合格である。ある意味では‘いい加減’である。‘いい加減’でも死に支度をしないよりはずっと増しである。今のうちに為しておかねばと思う死に支度は沢山ある。しかしそのうち7割ができれば十分である。そのようにして今日も一日、宇宙の時間軸に沿って24時間が過ぎて行く。

2010年10月31日日曜日

台風接近(20101031)

    今年は寒気の進出の出っ張りが例年より後ろに引いているので、この時期、台風は日本に接近しやすいのだと言う。台風14号は今夜関東に最も接近または千葉県南部に上陸する可能性がある。その後熱帯低気圧になると言う。

    男は今夜は詩吟を教える日なので、女房が台風の中出かけることが危ないと心配する。テレビで報道される天気図を見ると台風は幾つもの輪の中心にあり、その輪の範囲が大きいので如何にも危なそうである。しかし、男が行く先はその輪の範囲からすれすれ外れる場所であり、風雨は多少強いと思われるが瞬間風速15メートルにもなる可能性は低いと思う。それも詩吟が終わって帰る頃、台風は関東に最接近する予定なので、左程心配することはない。しかし、一応、ビニールの雨合羽を携行しようと思う。

    明日、日曜日の朝から、近所の方がわが家の玄関の下駄箱を修理・改装して下さることになっている。材料費は廃材利用なのでタダで工賃のみかかる。ご近所の方が自分の仕事の合間にやって下さる工事である。有難いことである。

    わが家では玄関の下駄箱の上に水槽を置いて大きな金魚(最初の頃は小さかったが成長して大きくなった)を2匹飼っている。玄関に金魚を飼っていると縁起がいいらしいのだが、下駄箱の修理・改装のため一端水槽を移動させなければならない。移動先は空いている和室である。今日は朝からその作業を行った。

    金魚の水槽の中に「水工作」というフィルターを入れている。このフィルターは別にモーターで動かすものではなく、エアーポンプからの送気だけで糞や餌の食べカスなど水槽内の汚物を除去してくれる。しかし、2週間もすればフィルターが汚れてくる。フィルターの部品は1、2度汚れを除去して再使用しているが、今回新品を付けて以来初めての清掃なので、面倒であったが念入りに行った。

    作業が終わる頃、女房が田舎から送ってきた金時のようなさつま芋を専用の器具で焼いて出してくれた。牛乳と一緒に頂く。「美味しいね」と言いながらテレビのスイッチを入れたら昨夜、突如中止された日中首脳会談のことがコメンテーターを交えて議論されていた。

    1978年、中国の鄧小平中国副首相は、尖閣諸島の問題を棚上げにすると言った。鄧小平氏はこの問題は次の世代に委ねる、と言った。そして、1990年代の初頭、鄧小平氏は「韜光養晦」(才能を隠して外に表さない)ということを言った。

    その熟語の意味が誤訳されて、「能力を隠して再起を待つ」とか「野心を隠して爪を研ぐ」と取られていると言う。しかし鄧小平氏が言った「韜光養晦」(才能を隠して外に表さない)という真意はともかくとして、男は今の中国の軍事力増強の状況を見れば、実際は「野心を隠して爪を研ぐ」という意味にしか取れない。おそらく大多数の日本人はそう感じていると思う。

    人も、人の集合体である国も、その根っこに動物の本能がある。動物のオスは他のオスと縄張りを争う。強いものが勝つ。日本は価値観を共有する諸国と手を組んで、集団の力で中国に対処しなければならない。核武装も視野に入れる必要がある。

2010年10月30日土曜日

風邪を引かない方法(20101030)


  徐々に気温が下がって来ている。男は昨年101歳になられたあるお方に東洋医学の健康法を教わった。それを極力実行している。お陰で体調は良い。時々「100回噛む」ことを忘れ、時々「口が卑しくて食べすぎたり」して胃を壊すことがある。しかしそれで懲りて最近はそんなことが無いように心がけている。起床時の日課はもう何か月も継続している。食事と運動は体調維持の基本である。それも3カ月ぐらい継続しないと効果が出ない。

  男は起床時ベッドの中で次の運動をしている。この運動のため勿論寝具は足の方にずらして運動をしやすくしている。その運動のやり方は次のとおりである。

  先ず爪を揉む。但し薬指の爪だけは揉まない。101歳のお方からはそのことは教えられなかったが、老人はインターネットである医者が、薬指は交感神経に関係があるので揉まない、と書いてあったのでその通りにしているだけである。本当は薬指を揉んでも構わないのであろうが、男は副交感神経だけを刺激することにしている。

  揉み方は爪の両端を挟んで「イチ、ニイ、サン」と3回揉む。合計8本の爪の両端をそのように拍子をとりながら揉む。次に両手の指先を真っ直ぐ平行に合わせ、同様に「イチ、ニイ、サーン」と強く押す。その間、呼吸を整える。

  次に額から息を吸い、足の裏で吐くことを意識しながら、実際は鼻で息を吸い、吸った息が気道を通って肺に貯まることを意識する。肺にちょっとの時間息を貯め、次に肺から脚、つま先へと貯めた息が流れることを意識しながら、出来るだけ細く、長く吐き続ける。脚はベッドから10センチぐらい浮かす。そのとき足のつま先や足の裏から吐くように神経を集中させる。吐いて吐いて吐きまくると足先が温まる感じがしてくる。息も上がる。

    そこで次に爪もみをしながら呼吸を整える。両足の裏を合わせて脚を開き、膝をぺたっとベッドに付ける。次に腰を浮かし、お尻の穴を絞り、息を吸い脚を閉じながら陰部を上に突き出すように上げ、次に息を吐き脚を開きながら下げる。その動作を3度ぐらい行う。これで精力が漲る感じがしてくる。そして再び額から吸い、足で吐く動作を行う。この一連の動作を3回繰り返す。

  次に左腕を伸ばし、右腕でそれを抑え、左足を伸ばした右足の上にくの字に組み、首を左に向けて身体を捻る。次に逆側を同様に行う。これを3回繰り返す。

  その動作を終えた後四つん這いになる。先ず右手と左足を伸ばし、十分伸ばして背中や腰の筋肉を鍛える。次に逆側を同様に行う。この動作を3回くり返す。次に腕立て伏せを10回行う。これは早く、深く行う。たまにゆっくり、緊張を持続させながら行う。

  最後に起き上って運動具を使い腕、腹筋、背筋などを無理のない程度に簡単に鍛える。握力を鍛える道具で10回ほど握力も鍛える。これで起床時の運動は終わる。次に水をコップ1杯飲む。シャワーを浴びて背中や胸の皮脂を洗い流し、洗顔する。

    つま先や足の裏から「気」が出るイメージを持つことや、上記のことは男が独自に編み出した方法である。101歳のお方は爪揉みと額で吸って足で吐くことだけ教えてくれた。後は自己流である。しかしこれが非常に良い。体温が上がり、免疫力が上がり、風邪を引かず、気温が低くても薄着で過ごせる。男の妻も自分なりに適度に行ってくれている。

2010年10月29日金曜日

特攻(20101029)


  本屋に立ち寄り何かいい本がないかと物色した。本屋の入り口の台上に『図説特攻』という本が目についた。その本は森山康平という人が著したもので河出書房新社が出版したものである。裏表紙にまだ10代と思われる特攻隊員が出撃前子犬と人形を抱いて微笑んでいる写真がある。これから死ぬというのに悲壮感がまったくない表情である。

 どんな内容の本かと思い立ち読みしてページをめくった。値段は1600円である。ついこの間、この本やで『大東亜解放戦争』という上下2巻の本を4000円も出して買ったばかりである。この本を買おうかどうか躊躇したが、結局買うことにした。このような本は今後出ないだろう。蔵書にしておけば男があの世に逝った後、孫がいい齢になった頃手にして読んでくれるかもしれない。そう思って思いきって買った。

 先の大戦で、特攻隊慰霊顕彰会という組織が編纂した『特別攻撃隊』(平成2年・非売品)には特攻戦死者の全氏名が掲載されているという。それによれば海軍が4156人、陸軍が1689人、合計5845人の方々が先の大戦で散っていったという。

 航空特攻の中心はフィリッピン近海における特攻と沖縄近海にものが大部分であるという。フィリピン航空特攻の戦死者は695人(海軍419人、陸軍276人)、沖縄航空特攻の戦死者は2610人(海軍1590人、陸軍1020人)となっているという。航空特攻では沖縄近海における戦死者が圧倒的に多い。必死で沖縄への米軍の侵攻を阻止しようとしたのだ。

 関行夫大尉が神風特別攻撃隊の隊長を命じられ、その任務を引き受け、出撃直前、同盟記者の小野田政にたいして「報道班員、日本もおしまいだよ。僕のような優秀なパイロットを殺すなんて。ぼくなら体当たりせずとも敵空母の飛行甲板に50番(500キロ爆弾)を命中させる自信がある」と語り、さらに「ぼくは天皇陛下のためとか、日本帝国のために行くんじゃない。最愛のKA(ケイエイ)(海軍隠語でKAKA、つぃまり奥さんのこと)のために行くんだ。命令とあらばやむを得ない。KAがアメ公に強姦されるかもしれない。ぼくは彼女を護るために死ぬんだ。最愛の者のために死ぬ。どうだ、すばらしいだろう!」と言ったという。関大尉はその年の春結婚したばかりだったという。

 特攻隊員の戦死者は多かったが無駄死にではなかった。護衛空母セント・ロー、護衛空母オーマニ・ベイを沈めた他、戦車揚陸船LST-472 など5隻の戦車揚陸船を沈め、その他駆逐艦、歩兵揚陸船など多数の船を沈めた他、多数の空母その他の艦船に被害を与え、戦闘能力を失わせている。九州沖では正規空母フランクリンに海軍特攻機が急降下攻撃を行い、爆弾2個を投下し、空母は10度以上傾き戦闘不能に陥った。

    同空母で戦死者800名ほど、戦傷者不詳という被害を与えている。アメリカ側では「太平洋戦争中最も悲惨な被害だった」と言っているという。この海軍急降下爆撃機は敵弾を受け空中分解して海中に落ちたという。

    男は若いころまだ小学生だった二男を連れ靖国神社に詣でたとき、そこで特攻隊員の遺書を読んだことがある。隊員たちは皆20代前後の若さであった。読んでいて涙が出た。今の日本があるのは、彼らの犠牲の賜物である。日本人は決して忘れてはならないのだ。

2010年10月28日木曜日

沖縄の問題(20101028)


  沖縄が日本に復帰した時、沖縄の人たちはもとより日本中の人々は大いに喜んだ。沖縄は復帰したが、沖縄には依然として強大なアメリカ軍の部隊が駐留したままである。今日まで多小縮小されたが、依然として極東の要として、沖縄にはアメリカ軍が駐留し続けている。そればかりではなく、イラク戦争でもそうであったが、沖縄に駐留している海兵隊の部隊は、沖縄から世界中どこへでも迅速に移動し、戦っている。

  老人が若かった頃、航空自衛隊の2等空尉(老人は、‘日本国防軍空軍中尉’と言いたい!)であったとき、沖縄に出張したことがあった。その時、アメリカ軍の将校と一緒に昼食をとったことがあった。その将校は「自分はドイツ系です」と誇らしげに語っていたことを覚えている。その将校の階級は中尉だったと思う。そのレストランには日米の‘将校’が利用することができた。食事代を彼が負担したのか自分が負担したのか覚えていない。

  その出張のとき泊った宿舎はアメリカ海兵隊が使っていたものであった。出張した時期は夏であったが、その宿舎には一切冷房はなく、おまけにロッカー内は電気ヒーターで常時温められていた。それはロッカー内の湿気を飛ばすためであったのだろう。その時老人は「アメリカの海兵隊員は熱帯のジャングルの中でも任務を果たすことができるように、常に即応の体制にあるのだ」と思ったものである。

  「有事即応」の体制、これが軍隊のあるべき形・姿である。近頃、日本人の間には自衛隊の有事即応体制のことが少し判ってきているようであるが、まだまだ不十分である。沖縄を含む日本列島全域を航空自衛隊のレーダーサイトで24時間途絶えることなく防空警戒監視を続けており、防空識別圏内を飛行する国籍不明機に対しては各地の航空基地に待機している戦闘機が緊急発進してこれを追跡・監視している。その回数は尋常ではない。

  わが国土の地形上、国土防衛のためには北方、西方、南西方向への自衛隊(老人はこの言葉が嫌いである。‘国防軍’とすべきである。)に十分な対応能力がある陸海空軍の精鋭部隊の配備が是非必要である。現状では国土防衛はおぼつかないのではないか?

  核兵器は最良の防衛兵器でもある。相手がミサイルの矛先をわが国土に向けている以上、わが方も相手に核ミサイルを相手に向けていつでも発射できるようにしておかなければならない。「核を持ち込ませない」、という考え方は現実的対応として絶対間違っている。

  日本人は自国のそのような防衛体制を日米安保があるから大丈夫だと思っている。アメリカの軍隊が我が国に駐留し、特に沖縄には日本有事の際戦地に真っ先に向かい日本防衛のために血を流す覚悟ができている海兵隊が駐留しているのに、わが自衛隊はその同盟軍の部隊を守ることすらできない。日本人はこの事実に真正面から目を向けるべきである。

  沖縄以外に住んでいる日本人は、沖縄にそのようなアメリカの実戦部隊が配備されていることを真正面から評価していない。沖縄の人たちにしてみれば、沖縄にそのような部隊があるという現状は、沖縄返還以前と今もちっとも変っていないので悲しいことであろう。

  国会議員や中央官庁の官僚たちが東京裁判の結果植え付けられた自虐的史観に囚われてきたことが、沖縄の問題を大きくした最大の原因である。このことは絶対間違いない。

2010年10月27日水曜日

小6女の子の自殺(20101027)

  小学校6年生の女の子が母から贈られたマフラーで首つり自殺した。その母親は外国人である。その女の子は学校でいじめを受け、孤独であった。新聞に載った写真を見て、男は胸詰まされる思いである。無口でおとなしそうな女の子である。家庭の中でその女の子は幸せであったのだろうか、とふと思った。

  学校側はその女の子が給食時間にいつも独りぼっちであったことは認めているが、いじめられていたことは認識していなかったという。男はそのようなことを平気で言う今の学校の態度に怒りを覚える。

  いじめにはいろいろあるだろう。「無視(ネグレクト)」もいじめである。独りぼっちであったということは、陰湿ないじめに遭っていたということである。子供に教育を行っている立場の者にそのくらいのことが分からなかったとすれば問題である。

  文部科学省はいじめの形態について指導を行うという。政府からそのような指導を受けなければ現場は改まらないのだろうか?それほど今の教師たちは程度が悪いのだろうか?

  仕方ないだろう。先日男は新幹線の陸橋の壁に向かってボール投げしている60歳代の男に注意した。そのような男の子供の世代が30代の教師たちの世代である。親が駄目なら子も駄目である。その30代の世代の親たちの子供たちも親からよい教育を受けないだろう。

  先日警察が万引きした子供の母親を呼んで注意したところ「万引きぐらいで」と言ったという。そのような母親は全体の数パーセント以下だと男は思いたい。

  それにしても向こう三軒両隣のような近所づきあいが希薄になった今の時代、何か打つ手はないのだろうか?物事には常に2面性がある。近所づきあいが希薄であっても、インターネット上で何か出来る筈である。先日ギャルママたちのネットワーク活動のことをテレビで観た。今の時代、全国どこに住んでいても、日本中の人々に呼びかけができる。

  そのような呼びかけを積極的に手助けするようなサイトはあると思う。ま、このように男がぼやかなくても、世の中はうまくゆくようになっているのだろう、と思いたい。

  ところでかく言う男は非常に優れた女房のお陰もあって向こう三軒両隣の付き合いがうまく行っている。ときにその日釣ったばかりのカンパチを頂いたり、旅行の土産を頂いたり、女房は女房で田舎から宅急便で送ってきた新鮮な野菜をおすそわけしたり、ご近所と頻繁にコミュニケーションが出来ている。

  先日、見かけない近所の子供が中学校に通う時すれ違った。男は「お早う」と言ったが気づかなかったらしくそのまま通り過ぎた。そこでその子供の背中を軽くたたき「お早う」とまた言った。その子はびっくりしたような表情で「お早うございます」と返してきた。

    ある日、こちらから声を掛けたのに黙ったままの青年がいた。「返事ぐらいしなさいよ、礼儀だよ」と言ってやった。先日の中学生の子もその青年も、男からそのようにして声を掛けられたことを幾つになっても覚えていることだろう。

  人様々であるが、男はご近所のどんな相手にもこちらから先に、気軽に、にこやかに、挨拶し、言葉を交わしている。これは男の習慣である。

 

 

2010年10月26日火曜日

90年世代(20101026)


 90年世代とは、中国内陸部の各都市で反日デモを行っている若者たちのことである。彼らは子供の頃、反日的な愛国心教育を受けている。日本人が全額金を出し、設計した南京大虐殺記念館もその教育に利用されている。

 彼らは「沖縄も尖閣諸島も中国の領土である。」「日本人はこの地球上から消え失せろ。」と叫んでいる。中国政府はデモの鎮圧に力を入れているようであるが、一部の‘ガス抜き’のためデモを容認している。沖縄の一部の人たちはそのデモをどう観ているであろうか?

 日本ではそのようなデモを行う若者はごく一部の学生たちであって、大部分の中国人は反日ではないと観ようとしている。デモは本当は中国政府に向けられているのであって、或いは、江沢民氏の一派が習近平氏を次期国家主席にするための権力闘争として行われているのであって、その旗印に「反日」を掲げているのであると、理解しようとしている。

 勿論、日本人は感情的になることは慎まなければならない。しかし、デモを行っている世代が将来中国の指導層(=官僚)になったときのことを日本は考えておかなければならない。15年後、日本と中国の関係は今より良くなっているであろうか?

 一昨日、前の官房長官だった平野氏が、中国との付き合い方について歴史を観れば分かる、というようなことを語っていた。男は、衆議員安全保障委員会の委員長である彼は、奈良・平安の昔から日本が当時の大国・先進国中国と付き合ってきたその付き合い方にヒントを得ているのだろうか?

 当時の日本は中国大陸から見ればはるかに遠い国であり、攻めてゆくのに相当のエネルギーを必要とした。今では簡単に核ミサイルが飛んで来かねない。第33代推古天皇の御代、聖徳太子が小野妹子を大唐(実は随の国)に派遣し、隋の皇帝煬帝に日本の国書を手渡した。その国書に「日出ヅル処ノ天子、書ヲ日没スル処ノ天子ニ致ス。恙無キヤ」とあった、これを見て隋の皇帝煬帝は喜ばなかったと、当時の中国の歴史書『随書』に出ている。

 当時中国(シナ)の歴代の皇帝は、シナこそ中華の国であって周辺の国々はケモノの国、民は東夷(とうい)・西戎(せいじゅ)・北狄(ほくてき)・南蛮(なんばん)という野蛮人である。シナの皇帝だけが天子なのであって、東夷の倭の天皇が自ら「天子」と称するのはけしからんと考えてきた。日本のことを「倭国」と言い続けてきた。シナが日本を正式に「日本」とよぶようになったのは、北狄のモンゴル人が皇帝になってからである。

 その元の皇帝も天皇を「天皇」とは言わず「日本国王」と言った。神奈川県立金沢文庫に北条氏関連の古文書が展示されているが、その中に元の皇帝が日本国の天皇に宛てた文書の写しがあった。これには、自らを「大元皇帝」とし、天皇を「日本国王」としている。ただし文末は「不宣」とあり、手紙の末尾につける挨拶の言葉を付けて、ある意味で中国の皇帝と天皇とは対等という友情を表している。皇帝は漢族ではなくても、実務官僚である漢族の官僚たちが公文書上「天皇」とさせなかったのであろう。

 一部の人たちの対日蔑視には根深いものがある。シナの皇帝の柵封下小中華の国であった朝鮮も同様である。その日本が大国であることが彼の国の人たちには憎らしいのである。

2010年10月25日月曜日

沖縄県知事選(20101025)


  今日(22日)付け「読売新聞」の記事に、前宜野湾市長伊波洋一氏(58歳)が読売新聞のインタヴューに答えて、沖縄県知事に当選しても普天間飛行場の移設問題について政府と協議しないと言ったという。

  伊波氏は次のように言っている。男は、彼は沖縄の独立と中国との朝貢関係復活を考えているのではないかと思った。とんでもないことである。

① 日米安保条約は時代錯誤であり、日本は同盟深化より日米平和友好条約を締結すべきである。

② 尖閣諸島近海の平和的漁業の実現のため中国と平和的友好関係を作りたい。

③ 沖縄は明治時代日本に併合されるまで、中国との朝貢関係にあった。中国はとても身近に感じる。

④ 先島諸島への自衛隊配備には反対である。

⑤ 米軍基地撤去を武器にして中国と対話を進めるべきである。

  伊波氏がこのようなことを堂々と発言する背景が分かった。男は昨日本屋で『歴史通』11月号を買った。この本はワック出版という会社「WiLL」が発行している月刊誌である。そこに沖縄県コザ市生まれ、78年防衛大学校卒業、82年2等海尉で退職後、琉球銀行等を経て現在拓殖大学客員教授である恵隆之介氏と前航空幕僚長田母神俊雄氏との対談記事が出ている。恵氏はその中で次のように言っている。

① 実は、いま尖閣の領有権どころか沖縄の領有権すら危機を迎えつつある。

② 中国は「戦後体制において、沖縄諸島は戦勝国である中国に返還すべきであった」と主張している。

③ 沖縄には琉球王国神話があって県民意識の中に、日本より中国が沖縄を厚遇したという神話が現在も生きている。

④ 沖縄には現在も中国帰化人の子孫が多数いる。県内でもこの中国帰化人の子孫であることは一種のステイタスなのである。

⑤ 仲井間知事やその前任者の稲嶺恵一氏も選挙の際はそれぞれファミリーネームを誇示していた。仲井間氏は蔡家、稲嶺氏は毛家である。

⑥ 琉球の支配体制下、農民は土地の私有を禁止されていて農奴のような生活を強いられていた。沖縄にとって廃藩置県はそのような原始共産主義体制からの解放であった。

⑦ 似非学者によって「日本政府による琉球王国征服」という被害者史観的教育が沖縄の小中学校で行われている。

  昨日、BSフジテレビ番組で国家情報機関設立の必要性が語られていた。現在は各省庁から出向してきた官僚により情報が取り扱われている。アメリカのCIAは一端そのCIA職員になったら定年までそこで働く仕組みになっているという。男は、一日も早く日本版CIAを作り、沖縄の現状を危機と捉え、対処しなければ取り返しのつかないことになると思う。

2010年10月24日日曜日

羽田新国際線ターミナル開業(20101024)


  今日(21日)羽田の新国際線ターミナルが開業した。ハブ空港としてインチョン空港やシンガポールのチャンギ空港に対抗して国際競争力を高めて行こうというものである。ただ着陸料がこれらの空港の4倍ほどでちょっと高すぎるのが難点である。

  男はテレビの報道で、同ターミナルの開業に向けて5年も前から準備して来た各関係会社の様子を見て、現役世代の人たちが頑張っていることにある種の感動を覚えた。「日本も捨てたものではない」と思った。男の息子たちはそれぞれの会社で、男が自分の人生で出来なかったことをやってくれている。男の往時の願望や欲求が息子たちによって満たされているような感じである。そのようなことがあるのは大変幸せなことである。

  かつて自分が現役のころそうであったように、人間は「自己実現」を目指して行動し、また一方で「使命感」とか「道徳的信条」を満たすように行動する。「使命感」や「道徳的信条」が「自己実現」と重なる場合もあろうし、重ならない場合もあるだろう。重なっている方が本人にとって幸せであると男は思う。

  人間を「企業体」や「社会」や「国家」という人間の組織的集合体に置き換えて考える。そのような集合的組織体でも、先ずは生存・存続のために最低限の何かを求めるだろう。次に「安全」を求めるだろう。次に「連携」とか「同盟」とかいうようなものを求めるだろう。次に自らを他のものに認めさせようとするだろう。最後に、国家という集合組織体ならば「世界に冠たる大国」になりたいと願うだろう。

  男の女房が興味があって一緒に観たのであるが、BSフジテレビの番組で平野元官房長官と森本敏氏が日本の安全保障問題について語っていた。両氏とも日本の国家情報機関(平野氏は「情報分析力を高めるような制度設計」という表現)の設立の必要性を訴えていた。

  中国はかつての王朝時代のような大国になりたいと願望し、それこそ自国が世界の中心であると言う思想・中華思想で自国の「自己実現」を達成したいと考えているに違いないと男は思う。平野氏ははっきり言わなかったが「歴史を見れば分かる」と言って、日本が中国と付き合ってゆくためには、日本から中国に公式的な政治的団体、例えば小沢氏の国会議員団体が訪問することにより中国の人々と仲良くなり、その一方で、日本の主権はきちんと守るようにすることが最良であると考えているようである。

  中国の要人も、例え国家主席でなくても天皇に拝謁(彼らは「拝謁」とは言わないだろう)し、中華の下の国と仲良くする、それが日本として彼の国と付き合う最良の方法だと、平野氏は考えているのかもしれない。それも一つの考え方であると男は思う。

  日本人のルーツには古代、戦乱を逃れ、或いは戦乱の結果の人々の移動で、長江(揚子江)中流域から陸伝いで北周りや、長江下流から東シナ海を渡ってやって来た人々(渡来系弥生人)もいる。勿論何千年の間原日本人(縄文人)との混血で現在の日本人になっている。漢族中心の中国人(シナ人)は、秀吉の時代でもスペイン人・マニラ司教ラサールから見て「日本人がシナ人のこの上なき仇敵」と評価されていた。その中国がそう遠くない将来、アメリカを押しのけて世界を席巻するような超大国になろうとしている。

2010年10月23日土曜日

生き残る(20101023)


  NHKテレビでお握り用とかおすし用とか目的別のブレンド米や米粉を使ったパスタや饅頭などを紹介していた。政府による後押しがあって日本のお米文化を再興させようという試みの一環であろうか?お米生産農家や農協がお米の消費拡大のため動き始めた。

    少人数の家族では、買うお米の値段が1、2割高くても自分たちの要求に合うものが手に入るのならば財布の紐を緩める。勿論、世の中にはそのようなゆとりがない家庭も数多いが、日本の経済の活性化のためには消費のあらゆる面で「多様性」をキーワードにして知恵を振り絞り、アイデアを出し合って消費者が求めるものを創り出すことが是非必要である。民間では当たり前のことが、政府が関わって何らかの規制をしている分野ではなかなかそのような発想が生まれてこない。

  日本は世界有数の農業国でありながら多くの食料を輸入し、世界有数の森林国でありながら多くの木材を輸入している。また日本は豊かな資源がある海洋に囲まれた国でありながら多くの魚介類を輸入し、また希少金属を輸入している。

  従来経済最優先で自給自足や安全保障の面をおろそかにしてきた。中国によるレアアースの輸出制限や発展途上国からの生物資源の採取制限により、日本は資源調達先の多様化など世界の中で‘生き残る’ための考え方を抜本的に見直さなければならなくなってきている。戦前、英・米・フランス・オランダによる包囲網の中、日本は自らの‘生き残り’をかけて戦った。そのとき植物から燃料を確保したり、国民が所有している金属加工物を供出させたりして、血眼になって資源の確保に努めた。知恵を出せばどのような困難でも切り抜けられる。これからの日本は世界の中で‘生き抜き’‘生き残る’ためにどうすべきか、真剣に考えなければならない。

  日本が国際的な生存競争の中で勝ち続けるためには、全日本人が危機感をもって団結し、知恵を振り絞って攻撃的に戦うことである。攻撃は最大の防御である。国の指導者が先頭に立って‘前に、前に’と国民を導いて行かない限り、この国は生存競争に負ける。

    軍人や元軍人が官僚の大部分を占めており、日本の国会に相当する全人代表会議は軍の施設内で行う中国は、国際社会の中で必死に生存競争を戦い、世界各地で摩擦を引き起こしている。日本が‘生きる戦い’をせず、鷹揚に構えていればいつの間にかこの国は中国に蝕まれてしまうだろう。

    政府は「日本と中国とは一衣帯水の国同士であり、戦略的互恵関係を発展させることが重要である」と言うが、その理念を掲げる前に、‘自給自存’を決して軽視ないという終始一貫した思想がなくてはならない。今、日本は政治家や官僚の資質が問われているのだ。

  尖閣諸島問題で多くの日本人は‘平和の眠り’から目覚めつつある。中国は‘寝た子’を起こしてしまったのである。しかし、まだ多くの日本人は太平の眠りから覚めていない。今こそ政府の指導力、実行力が問われ、試されているときである。男は、菅総理や前原外務大臣や北沢防衛大臣らの言動に深い関心をもっている。

2010年10月22日金曜日

偶感(20101022)

  男は今日(10月19日)都立大学のパーシモンホールまで、ある女性がその会のメンバーになっているある朗読の会の発表会を聞きに行った。行く途中川の土手の上で60歳代と思われる黒メガネをかけた男性が新幹線の高架の壁面に向かってボール投げをしている。新幹線の列車が取り抜けるときちょっと止めていたが、まだ列車が通り過ぎていないのにボール投げを再開した。壁面には沢山ボールが当たった跡が付いている。老人はその男性に声をかけた。「それはしない方がいいですよ」と。

  するとその男性は怪訝な顔をして「えッ、どうして?」と言って首をかしげ、ボール投げを続けている。「公共の物ですから」と男は言ったがそれ以上のことは言わずに駅へと急いだ。男は‘公共の物’とは言わずに「子どもが真似すると危険ですから」と言えば良かったと後で思った。それにしてもそのような場所では走行中の新幹線に向かって何か危険な物が投げられたり、銃などの発射装置で発射されたら大きな事故になりかねない。男はJR東海道にインターネットで注意を喚起しようと考えながら会場に向かった。

  その男性はおそらく大学を出て60歳を過ぎて定年となり、男と同じように‘毎日が日曜日’のような生活を送っているのであろうか。その子供は30歳代だろう。お天気も良いし他に何かすることもないので、運動も兼ねてそのようなボール投げ遊びをしているのであろう。奥さんはまだパートか何かで働いているのかもしれない。

  法律に書かれていない世の中のルールがある。世の中の暗黙のルールが守られていれば社会問題の発生も少ないだろう。世の中の暗黙のルールが今壊れているように男は思う。その男性の子供の年代の大人、つまり30歳代の男女のゼロコンマゼロ何パーセントかの者が何か社会的問題を起こすだけで、世の中は暗さを増す。30歳代の夫婦は親から教えられていないこと自分の子供に教えることは難しい。暗黙のルールが壊れると社会は暗くなる。

  朗読会では作家の作品の一部分を朗読して聴衆に聞かせる。男は発表者が朗読を始めると精神を集中さえるため、ロダンの考える人のような格好をして目をつぶって聞く。うかつにもある女性の朗読のとき途中で寝入ってしまい、朗読が終わる頃目が覚めて拍手をした。このことはその女性には話せない。しかし聴いているときなかなか良い朗読であると思った。男は普段あまり文学小説に親しんでいないので、朗読を聞きながらその文学作品における作家の表現の仕方や朗読者の朗読の技量などにチェックポイントを置き、自分なりに評価したり感心したりしていた。

  ある女性の朗読が終わり休憩時間となったので、男はアンケートに記入して会場を出、家路を急いだ。女房が「どうでしたか?」と聞く。「なかなか良かったよ。たまにああいうのを聞くのもいいね」と言いながら女房が用意したおやつを頂く。おやつは以前田舎から送られてきていた寒餅を冷凍庫から出して、焼いてくれたものである。砂糖醤油につけて食べる。お茶と一緒に頂きながら午後のひと時を過ごす。かくして時が過ぎて行く。もう10月も後半、光陰矢のごとく時は過ぎてゆき、男も女房もいずれあの世に逝くことになる。

2010年10月21日木曜日

箱根日帰り旅行(20101021)

  17日(日曜日)、男は女房と二人で7時半過ぎに家を出て箱根に向かった。千石原のすすき野を観にゆくためである。前夜、インターネットでJR東海道本線、小田急線、箱根のバスなどの時刻表を手に入れ、二人ともそれぞれリュックサックに必要な物を詰め、着て行く衣類なども準備していた。

  横浜からJR東海道線のアクティの2階席を利用した。特急券は予め駅のホームの発券機で手に入れ、2階席に行く。天井のセンサーにPASMOをタッチすると赤いランプが緑色に変わる。そのようにすれば列車内で特急券を買うよりは安い。社内での検札も省略される。タッチする場所は飛行機の中のランプやエアコン噴き出し口のようなユーティリティ・パネルの手前になっている。これは前の席用のタッチ場所と間違えやすい。奥の方にすれば上に手を伸ばすとき頭を無理に後方に傾けなくてもすむのに、手前になっている。これは設計ミスであると思う。

  小田原で弁当を買ってJR改札口を出て小田急ホームに向かう。小田急のホームに出ると丁度湯本行きの小田急ロマンスカーが到着したので、係員に特急料金200円を払って飛び乗る。小田原から湯本までは幾らも距離が離れていないので、ここは普通列車でも構わないのであるが、先を急いだのでそれに乗った。

  湯本で登山電車を待つ。一番前で待っている間に登山電車に乗る人が増えて混み合う。車内に入って座席に座ったがみるみる中に満員ぎゅー詰めの状態になった。10年ぶりかの箱根である。スイッチバックの登山電車から見える景色はよい。紅葉の時期はさぞ素晴らしいかろうと思う。

  強羅から施設巡りバスに乗る。片道490円。これも紅葉の時期に乗ればさぞ素晴らしいことだろうと思う。マイカーならそのような楽しみは味わえず、逆に時には渋滞で顔をしかめることになるだろう。行楽地はマイカーで行くべきではない。

  湿生花園ですすき野巡りのバスに乗る。わざわざそのバスを利用せずとも歩いて1キロほどのところにすすき野がある。駐車場のベンチに腰掛けて弁当を食べる。「小田原駅開業90周年記念わっぱ」という弁当はとても美味しかった。これは1個900円であった。持ってきたコーヒーも美味い。デザートにリンゴやみかんも食べる。昨夜ご近所の方から頂いた水戸のジャンボどら焼きも美味かった。行楽には十分な飲料や菓子も持って行くに限る。

  すすき野は今年は日照りの関係で背が低いと言う。それでも一面のすすきの野原はそれなりに見ごたえがある。しかし、ここは一度来るだけで十分である。

  湿生花園で老妻共々シニアの料金を払って中に入る。ここは皇族方もお出ましになられるようで、記念の標柱が建てられている。皇族方は生物学にご興味がお有りである。男もたまに「顕微鏡が欲しい」と言うと、女房から「何を観るの?」と笑われることがある。雉の姿を近くで観察することもできた。雉の泣き声は独特で、恐竜の声のようである。

  小田原でちょっと時間を過ごし、気風の良い兄ちゃんからとろろ昆布など買い、老妻も温泉饅頭を買い、夕食をとって帰路につく。負荷をかけて歩いた総歩数1万3千歩。

2010年10月20日水曜日

尖閣諸島問題に関する日本共産党の見解(20101020)


   日本共産党は、先週月曜日(2010年10月4日)に、インターネットで『尖閣諸島問題 日本の領有は歴史的にも国際法上も正当――日本政府は堂々とその大義を主張すべき――』という見解を発表している。

  老人はこれを読んで大変嬉しくなった。老人はかつて日本共産党は嫌いであった。老人は近年の日本共産党の政治姿勢には、他の政党に見られない一貫性があると評価している。もし将来同党が政権与党となった場合には、必ず正規の国軍を創設するだろう。ただし天皇制は廃止の方向だろうと思う。しかしそれは困る。

    しかし、もし同党が尖閣諸島はもとより、北方四島、竹島も我が国固有の領土であるとして、領土・領海・領空法など法律を定めて世界に向けてアッピールし、万世一系の男系の皇統を維持し、憲法を改正して国軍を創設し、日本の伝統や文化を守り、科学・技術の一層の向上を図り、国の富を増やす姿勢であるならば、同党は既存のどの政党よりも今の日本にとって最も期待される政党となることであろう。

    外務省はホームページで中国語でも尖閣諸島のことを説明しているが、まだまだ弱い。かつてのように軍人が政府の中枢にいない我が国の官僚たちは‘ふにゃふにゃ’腰、腰ぬけである。今からでも遅くは無い。政治家や中央官庁の官僚たちは、外交の手段としての軍事力の重要性について猛勉強して貰いたいと老人は願う。日本人は、東京裁判で毒された精神、自虐史観の精神から立ち直るべき時が来ている。

    岡田大臣は「日中両国ともこの問題には冷静に対処しなければならぬ」と言っている。しかし冷静ではないのは中国政府の方である。孫子の兵法に「遠交近攻」というのがある。日本の外務省は遅きに失しているがようやく世界に向けて尖閣諸島問題について積極的に説明を始めた。正しいことは遠くの国々に良く説明するがよい。日本人は平和ボケから目ざめて国土防衛に必要な最低限の軍事力を整備すべきである。

    国の軍事力は、個人に置き換えて考えれば日本刀とそれを腰に刺した武士のようなものである。その武士の鋭い眼光と鍛え抜かれた体つきと、磨きに磨きをかけた刀使いの技と、物おじせぬ物言いと、肝が据わった態度と、知性と徳性と高い教養と、自制心と、仁愛の精神と、事に臨んでは最愛の者すら顧みることなく己の役割を遂行する冷徹さなどである。

    18日(月)参議院決算委員会で丸山和也議員が仙石官房長官と予め示し合わせていたようなやりとりを行っていた。丸山議員は西郷南洲遺訓の第17項にある「正道を踏み国を以って斃るるの精神無くば、外国交際は全かる可からず。彼の強大に畏縮し、円滑を主として、曲げて彼の意に従順する時は、軽蔑を招き、好親却て破れ、終に彼の制を受くるに至らん」をボードに提示し、中国に対する政府の対応を批判していた。自民党政権は中国に向き合う政府の対応よりも専ら経済活動の振興に力を入れ、防衛予算を年々減らしてきた。

    軍隊(自衛隊)の経験者がいない政府は軍事力に対するアレルギーをもっている。一方の中国の政府は9割も軍隊経験者や軍人で占めている。日本人よ、目を覚ませ!

2010年10月19日火曜日

秀吉の朝鮮出兵(20101019)


   秀吉がフィリッピン総督に送った書状は「今や大明国を征せんと欲す。(中略)来春九州肥前に営すべく、時日を移さず、降幡(こうはん)を偃(ふ)せて伏(降伏)すべし。若し匍匐(ほふく)膝行(ぐずぐずして)遅延するに於いては、速やかに征伐を加ふべきや、必(ひつ)せり。悔ゆる勿れ・・・」というものであった。秀吉の朝鮮出兵の目標は、実はスペインとポルトガルに向けられていたのである。スペインの野望は実らなかった。


  前掲の本には秀吉のことを英雄と呼び、日本の戦後の歴史観、自虐的歴史観が間違っていると書いてある。男はこれまで秀吉のことをここまで詳しくは知らなかった。信長や秀吉や家康はそれぞれの時代でわが日本国、万世一系、男系の皇統がある世界に稀な国・日本を守って来たからこそ、今日の日本があるのである。

  ナチスドイツ指導者並みの罪を着せられて処刑された東条首相は「戦争に負けたが戦争の目的を達成した」偉人として認められなければならない、と男は思う。ただ、彼ら指導者には何百万人もの同胞や数多くの東亜の人々を戦争で死なせたという責任はある。

    東京裁判に臨んだ東條首相のメモに「東亜ノ安定ヲ確保シ、世界平和ニ寄与スルコトハ自存自衛ヲ確保セントスルコト」「今日迄ノ帝国ノ大東亜地域大東亜諸民族ヲ理導(道)セル処置ハ之皆此ノ道義ニ依ル行為ニ外ナラズ、而シテ例ヘ戦局ノ波爛ニ依リ其ノ植エツケタル種ハ百年千年ノ後ニ必ズヤ此ノ正道ハ将来ニ芽(苗)ヲ出ス機会ヲ生ズヘク帝国ノ大東亜諸民族ニ及ボセル大徳ノ発スル時アルヘシ」というものがある。

    東條首相はアメリカとの戦争は何としてでも避けたかった。しかしアメリカのルーズベルト大統領は日米交渉を行いながらも一方で日本の海外資産の凍結や石油禁輸などを行って日本を窮地に追いやった。

    東條首相は開戦の責任を一身に負い、キーナン検事が「戦争を行わなければならないというのは、裕仁(ひろひと)天皇のご意思でしたか」という質問に対して、「天皇陛下は最後の一瞬にいたるまで平和へのご希望を持っておられました。12月8日の開戦の詔書に陛下のご希望によって、開戦は【朕(ちん)の意思にあらざるなり】というお言葉が入れられました」と答えている。(講談社『東条英機 天皇を守り通した男』福富健一著より引用)

    大東亜の解放戦争に敗れた日本は、結果的に19世紀に欧米やロシアが蹂躙しようとしていた中国や朝鮮を彼らの野望から守り、20世紀に欧米が植民地にしていたアジア諸国を解放したのである。日本は決して侵略国ではなかった。東京裁判において欧米・ソ連・中国によって日本は侵略国家とされてしまったのである。日本は戦争に負け、「力は正義なり」という論理によって侵略国家とされ、国民は洗脳されてしまったのである。

    日本は戦争に敗れはしたが、戦争の目的は達成した。その戦いで国の為尊い命を捧げた英霊たち(男の叔母の夫もその一人)は靖国神社に祀られている。この英霊たちに報いるため、今後日本国民が為すべきことは、皇統を守り、領土・領海・領空を守り、伝統・文化を守り、武力を持ち、科学・技術力を高め、国の富を高めることである。

2010年10月18日月曜日

秀吉の朝鮮出兵(20101018)


  14日、男は48年間連れ添った女房と一緒に参議院予算委員会の様子をテレビで観た。女房は放送大学を2回卒業していて、それぞれ学位記を取っている。しかも今もなお別の専攻で勉強している。福祉や教育関係はもとより、社会や政治問題にも関心が深い。今日は自民党の山本一太議員が質問するというのでその状況を観るのを楽しみにしていたのである。山本議員は菅総理や官邸の危機管理意識について追及していた。

  中国の漁船による尖閣諸島問題が起きていた矢先にベルギーで開かれたASEMの最終日の行事が終わり会場を出たとき‘たまたま廊下で顔を合わせた’という温家宝中国首相と菅総理が、廊下にあったソファーに座って‘口をきいた’ということについて、山本議員は菅総理や仙石官房長官に鋭く迫っていた。ASEMとは、ASEAN10か国に、日・中・韓・インド・モンゴル・パキスタンとASEAN事務局及びEU27か国と欧州委員会が参加するアジア欧州会合(ASEM)のことである。

  中国側はそのときの‘口利き’談義を‘会談’と言わず、‘交談’とし、しかも、温家宝首相は「钓鱼岛是中国固有领土」と言ったと報道した。中国の言う钓鱼岛は尖閣諸島のことである。彼らはその辺りに石油資源が埋蔵されていることを知り、1970年からそこを自国の領土であると公然と主張し始めたのである。

    中国の実務官僚は元軍人が多いと言う。もともと愛国心の強い人たちである。彼らは軍という組織体が持っている一貫不変の戦略的原則のもと、日本側の憲法前文の「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼し云々」など無視して、「相手が弱い」と観れば「愛国的」に国際社会に向かって公然と紛争を仕掛けてくるのである。

    温家宝首相は英語通訳のほか日本語通訳も同行していた。それに対して菅総理は英語通訳しか同行させていなかった。我が国の官僚は軍隊経験(自衛隊経験)が全くない連中ばかりである。危機管理がまったくできていない。老人はこのことを嘆き続けている。

    戦国時代を経て誕生した豊臣政権は、秀吉自らも含めて当時の‘軍人’たちが政権の中枢にいた。秀吉はスペインの謀略を直ちに見抜き迅速に対処した。それはスペインがシナを征服することになれば、そのシナの柵封下にある朝鮮も征服される。ならば、自ら朝鮮を征服し、この日本を守ろうと考えたのである。(以下、前掲の本から引用)

    コエリョは1585年3月3日付のフィリピン・イエズス会布教長宛て手紙で「もしも国王陛下の援助で日本66ヵ国全てが改宗するに至れば、フェリペ国王は日本人のように好戦的で頭のよい兵隊を得て、一層容易にシナを征服することができるであろう」と書いている。 

    秀吉はコエリョが秀吉に明(当時のシナ(今の中国)の王朝の国)への軍隊派遣を要請した直後の1585年5月4日、コエリョに対して逆に自らの明征服計画を披歴し、ポルトガルの軍艦2隻を所望した。当時、ポルトガルはスペインの支配下にあった。

    秀吉は朝鮮出兵前年の天正19年(1591年)、ゴアのインド副王(ポルトガル)とマニラのフィリピン総督(スペイン)に降伏勧告状を突き付けて、コエリョを恫喝している。

2010年10月17日日曜日

秀吉の朝鮮出兵(20101017)


  男は韓国のソウルに観光旅行したことがある。その時の現地ツアーガイドは沈(シム)さんという女性であった。彼女は自分の先祖が宮廷の女官であったという。その彼女が語ってくれたことには、韓国で一番嫌われている日本人は豊臣秀吉と伊藤博文であると言う。いずれも韓国人から見れば自国を蹂躙した日本人の頭目である。

  一方、われわれ日本人から見れば、日本がスペインやロシアから蹂躙されない予防策として、秀吉は朝鮮に出兵し、伊藤博文は大韓帝国を当時の万国公法(国際法)に基づき、条約を以って合法的に併合したものである。結果的に見れば、朝鮮半島は朝鮮民族だけのものとして守られてきた。スペインやロシアに蹂躙されることはなかった。

  男が読んでいる本『改訂版 大東亜解放戦争』(岩間 弘著、創栄出版)に秀吉の朝鮮出兵について次のことが書かれている。その本には日本の神代の歴史に似た檀君神話のことも書かれている。日本の皇統は万世一系で保たれてきたが檀君の子孫は途絶えた。朝鮮半島はシナ(明や清王朝)の柵封体制下にあり、中華思想の中、自ら小中華と称していた。その本には朝鮮半島の近代史について男がこれまで学んでいなかったことが書かれている。以下、秀吉の朝鮮出兵の経緯に関することをその本から部分的に引用して記述する。

  天正15年(1587年)、秀吉は突如としてイエズス会の日本準管区長ガスパル・コエリョに「五カ条の詰問」を突き付けた。その第五条に曰く、「何故に耶蘇(やそ)会支部長コエルホ(コエリョ)は、其の国民が、日本人を購買して、これを奴隷としてインドに輸出することを容認する乎(か)」コエリョは種々陳弁したが、ポルトガル商人による日本人の奴隷売買は公然たる事実であった。

  秀吉の側近大村由己(ゆうき)は、秀吉による日本人奴隷売買の禁止が宣教師追放の目的であったことを明快に指摘している。この本には大村由己による秀吉への意見具申書が原文のまま紹介されている。

  秀吉のような統一者がいなかったフィリピンはスペインに蹂躙され占領されている。そのフィリピンのマニラ司教サラサールがスペイン国王に送った書簡(1583年6月18日付)に「私がこの報告書を作成した意図は、シナの統治者達が福音の宣布を妨害しているので、これが、陛下が武装してシナに攻め入ることの出来る正当な理由になるということを陛下に知らせるためである。(中略)そしてこのことを一層容易に運ぶには、シナのすぐ近くの国の日本人がシナ人のこの上なき仇敵であって、スペインがシナに攻め入る時には、すすんでこれに加わるであろう、ということを陛下が了解されるとよい。そしてこの効果を上げる為の最良の方法は、陛下がイエズス会総会長に命じて、日本人に対し、必ず在日イエズス会士の命令に従って行動を起こすように、との指示を与えるよう、在日イエズス会修道士に指令を送らせることである。」

  当時、スペインは日本人を改宗させてスペインに協力させ、シナを征服しようとした。秀吉はスペインの意図を逆手にとってコリョに自らの明征服計画を披歴した。(続く)

2010年10月16日土曜日

負けるが勝ち(20101016)


  老人は「‘教えざる’ことは卑怯である」と常々思っている。ジャスコという大型小売店の脇の道を歩いているとき二人の警察官に出会った。一人の若い警察官が帽子をあみだに被っているのが気になった。それを見ながら通り過ぎてしばらく歩いたがそのことが気になった。引き返したらもう一台のパトカーがやって来て警察官4人で何やらしゃべりながら川の土手の方に向かって歩いて行っている。老人は近づいて後ろから「何かあったのですか?」と聞いた。すると帽子をあみだに被っている若い警察官が「お婆ちゃんが迷子になったのです」と言う。老人は「事件でもないのに4人も集まってきて・・、暇なんだろうな」と思いながら「ああそうですか」と言った。そしてその警察官の肩をそっと叩いて「帽子はきちんと被って」と言った。その若い警察官は照れ笑いしながら「すみません」と言って帽子を被り直した。老人はすがすがしい気分になった。

  昨日書店で『改訂版 大東亜解放戦争』(岩間 弘著、創栄出版)上・下巻2冊を買った。合計4000円だった。その本の裏表紙に「[オランダ]アムステルダム市長の挨拶」という記事が二見ヶ浦の夫婦岩の向こうから朝日が昇っている写真の下に書かれている。その写真のタイトルは「光は東方より」である。

  その挨拶は平成3年、日本傷痍軍人会代表団が、首都アムステルダム市長(サンティン氏)主催の親善パーティに招待された時のものである。その中に「あなた方日本は、先の大戦で負けて、勝った私どもオランダは勝って大敗しました。 (途中略)今、オランダは日本の九州と同じ広さの本国だけとなりました。あなた方日本はアジア各地で侵略戦争を起こして申し訳ない、諸民族に大変迷惑をかけたと自分をさげすみ、ペコペコ謝罪していますが、これは間違いです。あなた方こそ自ら血を流して東亜民族を解放し、救い出す、人類最高の良いことをしたのです。 (途中略)本当は、私ども白人が悪いのです。100年も300年も前から競って武力で東亜民族を征服し、自分の領土として勢力下にしました。 (途中略)本当に悪いのは、侵略して権力を振るっていた西欧人の方です。日本は敗戦したが、その東亜の開放は実現しました。(途中略)日本の功績は偉大です。血を流して戦ったあなた方こそ最高の功労者です。自分をさげすむのを止めて、堂々と胸を張って、その誇りを取り戻すべきです。

  老人は生れて初めて心の眼が覚めた。この本を読むうちに秀吉が何故朝鮮に出兵したのか分かった。キリシタン弾圧が何故起きたのか分かった。秀吉はポルトガル人が日本人を奴隷(ニグロ)の奴隷にしようとしていた事態に対処したのである。西欧人はキリスト教布教を表に出して裏で東亜の人民を次々支配下に置いて行った。しかし日本の指導者は断じてそれを許さなかった。秀吉の朝鮮出兵の目的はスペインの明(当時の中国)征服計画の阻止にあったのである。

  日本は戦争に敗れたが、結果的に戦争の目的を達成し、今やアジア諸国や欧米諸国から畏敬される国となっている。これは靖国神社に祀られている英霊のお陰である。(合掌)

2010年10月15日金曜日

小説『母・ともゑ』継母の介護(20101015)

  そのような家に八千代は独りで暮らし、介護を受けながら家を守っている。信輔は八千代の介護のため頻繁に帰郷し、そのたびに一臣が生きたこの風光明媚な土地でピースフルな気持ちになることができている。‘ピースフル(peaceful)’は日本語では完全に表現できないような「穏やかな、平和的な、人々が和やかな、田園的な」イメージである。信輔の友人であるスエーデン系アメリカ人の女性が良く使っていた言葉である。信輔はこの土地から離れることができない継母を大事にして上げなければならないと思っている。

    その母も近頃物忘れがひどくなってきている。信輔は母が汚した衣類を洗濯機に入れる前に粗洗いするため、たらいとゴム手袋を用意した。自分が訪問介護ヘルパーのように他人として一人の老いた女性を介護するという気持ちなると、どんなことでもやれるとう自信と気概を持つことができる。

    信輔自身、会社定年後暫くボランティア団体に所属していた縁で、ホームヘルプサービスを提供しているある女性ばかりの団体に関わるようになり、その団体をNPO法人化し、7年間自ら理事長をし、その間2級ホームヘルパーの資格も得ている。その間実際にホームヘルプ活動をしたことがあるが、そのときの相手は男性であった。今度は自分の継母である。継母も信輔を非常に頼りに思っている。これは信輔の人生の「役割」の一つである。

    この仕事が「役割」であると思うと信輔は何の苦労も感じない。むしろときどき竹馬の友に会ったり、先祖の祭祀のことを考え、準備することが出来たりして楽しいことである。信輔は先祖以下祖父母の墓と父・一臣や生母・ともゑの墓が別々の場所にある状況を自分の代で解決し、信輔の子孫や一族が同じ場所で先祖の祭祀を行うことができるようにしなければならないと考えている。

    信輔のように家系や先祖の祭祀を大事に考える者は近年そう多くはないであろう。まして女性はそのことに余り関心をもたないだろう。昔、女性は‘女’へんに‘家’と書いて嫁と言うように、女性は家を出たら他家に従属する存在であった。今時の女性は男女別姓に賛成する者も少なくない。しかし‘家’は古来日本人にとって大変重要な文化的シンボルである。日本が英米等との戦争に負けた結果、そのような‘家’の秩序を軽んじるようになってしまった。その結果、昨今いろいろな社会問題が生じている。

    天皇家は日本人にとって各家の宗家のような存在である。ともゑが今際の時「東を向けておくれ」と言ったのは意味があった。ともゑは信輔に‘家’の秩序を身を以って示したのである。ともゑには戦争に負けた日本の今日の姿を見とおせたのかもしれない。

    八千代は一臣を支え、自ら育てることは出来なかったが自分の娘・幸代により一臣の孫、つまり信輔の息子たちをわが‘家’にもたらし、わが‘家’に貢献した。そして91歳になり、そう遠くない日に自分の人生を終えようとしている。73歳にもなったとは言え長男である信輔は継母・八千代を良く看なければならないという責任と義務がある。地縁血縁が濃い田舎の地域社会で果たさなければならない義理が、長男・信輔にはあるのである。

2010年10月14日木曜日

小説『母・ともゑ』継母の介護(20101014)


  八千代が散歩のとき会ったもう一人は、八千代の夫、つまり信輔の父・一臣が就職の世話をした女性だった。

  一臣は定年で校長を辞めた後、中学校を卒業した子供たちを愛知県内のある紡績会社に就職させる世話をしていた。当時田舎の中学校を卒業したばかりの子供たちを都会地の工場に送り込み、自立させるのは大変なことであった。しかし一臣は自分の経験を活かして子供たちに働きながら高等学校に通うことができるようにしてあげたいと考えた。それは一臣が定年後暫くの間、日田林業高校で数学の講師をしていたときに思いついたことであった。一臣の教員免許の教科は「数学」と「理科」であった。

    一臣はその紡績会社が一臣の希望に叶うものであるという確証を得、その会社の現地採用係のような仕事を請け負って玖珠郡内の中学校を回り、就職を希望する子どもたちと面接し、一臣の眼に叶う者を採用して愛知のその会社に送り込んでいた。子供たちは青春の一時期、その会社の社員寮で集団生活をし、働いて収入を得ながら高等学校に通っていた。八千代が会ったのはその中の一人であった。八千代は「あの当時、先生(一臣のこと)には本当にお世話になりました」と礼を申し述べられたと言う。

  八千代は保険の外交員をしていて借金があった一臣のもとに後妻として入った。新たな伴侶を得た一臣は間もなく教職に復帰することができた。それは昭和25年(1950年)9月30日のことであった。但し、教員中途採用の年齢制限があったため、初めの3年間は助教諭という肩書であった。赴任先は玖珠郡内の僻地の小学校であった。

    一臣は八千代と二人の間にできた1歳の子供・亮子の3人は、希望を膨らませて新任地に赴くため又四郎の家を出た。信輔ら一臣の子供3人は又四郎の家に残った。一臣は、自分の安月給ではとても信輔らを一緒に連れて行くことはできなかったし、教育環境としては子供たちが又四郎の家に残る方が格段に良いと考えたからである。信輔らは祖父・又四郎の家で八千代とは1年半ほどしか一緒に暮らしていない。信輔と信直は高校時代まで又四郎の世話になっていた。祖母・シズエが母親代わりをしてくれていた。

  新任地に赴いた一臣と八千代と亮子の家族の暮らしは非常に厳しいものであった。八千代の話によれば、おかずもなくご飯に胡麻塩を振りかけただけの食事の時もあったという。 

    一臣は戦前朝鮮慶尚北道で校長もしていたが、今や若い教諭よりも下の助教諭である。しかし一臣は八千代の内助の功もあってよく頑張り、3年後の昭和28年(1953年)8月1日、晴れて教諭となり、1年半後の昭和30年(1955年)3月1日に校長に補せられている。一臣が47歳になる10日前のことであった。其処に至るまで、大分師範学校の一臣の先輩や同級生らの働きがあったし、妻・八千代の内助の功があったことは言うまでもない。

  一臣は又四郎の長男であったが家督を継ぐことなく、100坪の土地を手に入れ、庭園付きの立派な家を建てた。仏間は親戚が訪れて来ても恥ずかしくない程度に飾り物もして仕上げ、生前に自分の戒名も貰っていて納骨堂内に自分の納骨壇までも準備していた。

2010年10月13日水曜日

小説『母・ともゑ』継母の介護(20101013)


  信輔が湯の平で友達に会って家に戻った翌日、信輔の父・一臣と継母・八千代の間に出来た娘で、信輔にとっては腹違いの妹・亮子が母のことを心配して帰ってきた。亮子自身、夫の実母が入院して寝たきりの生活を送りながら人工透析を受けているため、そちらの方の介護もしている。寝たきりの生活になるまでの間、亮子は義母の介護で大変苦労していた。このたび信輔からの連絡を受け、夫や義母の勧めもあって丁度連休もあるので帰ってきたのである。

  その日はお天気がよく、八千代は退院後の自分の体調回復の為その辺りを散歩したいと思った。午後、いつものように押し車を押して国道に沿った歩道を歩いて行った。八千代はこれまで国道に沿って大分方向に行ったことはなかったが、信輔からある話を聞かされて自分で進んで外出し、そちらの方向に行ったらしい。

    ある話とは、八千代の母・シモが96歳で没する1ヵ月前まで乳母車を押して出掛け、その頃、信輔の妻・幸代と同じほどの年齢であった嫁にはあまり負担をかけていなかったという話である。60歳を過ぎていた信輔が八千代の実家を訪れていたときシモ婆さんは信輔に優しい笑顔を見せながら出かけていた。シモ婆さんは96歳という高齢にもかかわらず婦人会の名誉会長をしていたこともあって、出かければ隣り近所何処でも歓迎されていた。

    八千代がまだ70歳代の頃までは八千代より年上のお仲間が八千代の周囲にはいた。八千代は最年少であったということもあって、当時はお仲間の世話役をしていた。しかし皆既に鬼籍に入ってしまっており、八千代の実母であったシモ婆さんのように出かけて行っては気楽に語り合える相手が八千代の周囲には居なくなっている。居ても足が悪くて簡単には出て来れなくなっている。

    いつもなら八千代は押し車を押し、国道に沿って日田方向に散歩し、スーパーなどの店に入って何か買って帰ってきていたが、そのスーパーも閉店してしまったので初めて反対方向に行ったという。いつもなら30分ほどで戻ってくるのに今度は1時間経っても戻ってこない。信輔が様子を見てこようと出かけるとき丁度亮子が帰ってきた。

    亮子は「お母さんは?お母さん元気なの?」と言う。「お母さんは元気だよ。今押し車を押して散歩に出かけているところだよ。ちょっと様子を見てこようと思う」と信輔が言うと、「私も行くわ」と亮子は自分の荷物を玄関に置いたまま信輔についてきた。信輔は、八千代が今日はいつもと違う方向に行っているだろうと予感していたので、亮子と一緒に大分方向に歩いて行った。すると向こうの方で小さな物がこちらに向かって来ている。「あ、あれはお母さんだよ。押し車を押してこちらに向かって来ている」と信輔が言うと、亮子はそちらをじっと見つめている。亮子は加齢に伴い視力が落ちていて直ぐにはそれが何であるか視認できなかったが、ようやくその小さな物が押し車を押してこちらに向かっている八千代であることが分かった。八千代は今度初めてそちらの方向に出かけて幾人かの人に会い、長話をしていたため帰りが遅くなったのである。その話相手の一人は信輔と幸代が先日初めて会って知己を得ていた新しい民生委員である。信輔と同年輩の婦人である。

2010年10月12日火曜日

小説『母・ともゑ』湯の平温泉(20101012)


  辰ちゃんは「レンズが湯気で湿っているからだ」と言う。信輔はまあこのようにぼやけている写真も悪くないだろうと思って辰ちゃんには「もう一度撮って」とは言わなかった。自分が芳郎君と写っているのがぼやけていてもよい思い出になるだろうと思った。

  湯殿を出るとその渓谷堂本舗のおかみさんが昔田舎で見かけたような綿入りの袢纏を来て椅子に腰かけている。ご主人が「うちのは脳梗塞をやって身体が不自由なんじゃ」と言う。辰ちゃんが「あ、奥さんはうちの家内に似ている!」と言う。そう言えば雰囲気が似ているので信輔も「そうだね。似ている。似ている」という。辰ちゃんはいつも自分の奥さんのことを思っていてまた「どことなく雰囲気が似ている」という。

  話が弾み、渓谷堂本舗の店のほうに足を運ぶ。芳郎君がポケットから煙草を取り出して「これ、いい?」と皆に了解を求める。「どうぞ、どうぞ」と言うと芳郎君は湯殿の方に行き傍のベンチに座ってうまそうに煙草をふかせる。信輔が「10月から煙草も値上げになったね。買い込んだの?」と聞くと、芳郎君は「いや、買い込まなかった、もうそろそろ煙草は止めようと思う」と言う。辰ちゃんがヘビースモーカーの肺臓の写真のことを話す。信輔は「俺のところの長男は医者に通って煙草をやめたよ。会社の方が社内禁煙になったらしい。」と言う。

    渓谷堂本舗の主の商売上手に引き込まれてずっしりしたきんつばの羊羹を買う。1個1000円である。辰ちゃんも買う。芳郎君は町で買えば1300円するという小豆を一袋かった。「明日、洋二郎の誕生日なので赤飯を作ろうと思う」という。売られている小豆は色つやよく大粒で揃っていて品質はなかなか良さそうである。赤飯は奥さんが炊くのであろう。

    渓谷堂本舗のおかみさんは身体は不自由であるが、おだやかな笑顔が信輔の印象に残っている。ご主人の話によれば町までの買い物は息子さんが、このお母さんを乗せて車を運転して連れて行ってくれるのだという。多分大分方面まで買い物に行くのだろう。

  平日のためか、この辺りに2軒あるという食堂は何処も休業である。昼食は辰ちゃんの家がある賀来方向に向かう途中で、何処かに立ち寄って取ることにする。210号線の沿道にラーメン屋を見つけて中に入る。3人とも1杯600円なりのてんこ盛りねぎラーメンを注文する。信輔は塩分の摂取を少なくするため、汁は吸わず具だけ丁寧にすくい上げて食べる。

  途中、鬼が瀬という無人駅に止まる。列車の時刻を見ると20分ほどで1両列車が来る予定である。辰ちゃんらに別れを告げてそのホームで列車の到着を待つ。何処からともなくキンモクセイの香りが漂ってくる。誰もいないホームで山手に向かって白居易の『村夜』という詩を吟じる。真に気持ちが良い。

  やがて列車が来た。この列車は湯布院止まりである。切符は湯の平まで往復買っていたので鬼が瀬から湯の平までの料金を湯布院に降りたとき払った。湯布院で30分ほど特急を待つ。その間駅舎の外にでて町の風景を楽しむ。観光客は左程多くない。お天気は快晴。街中を観光馬車がパカパカひずめの音をさせながら走っている。自動販売機でお茶を買って呑む。湯布院には時々来るが、いつ来てもこの街は良い。信輔は竹馬の友がいる故郷があることを幸せに思う。皆、何れの年にかよぼよぼの爺さんになり、あの世に逝く。

2010年10月11日月曜日

小説『母・ともゑ』湯の平温泉(20101011)


    平成22年10月6日、今日は快晴で気温も23度、信輔が乗った「特急ゆふ」号はおおむね玖珠川に沿って通り、湯布院近くの分水嶺を通り過ぎると大分川に沿って「湯の平」に向かってゆく。列車が駅を通過するホームの脇などにコスモスなどの花が咲き乱れている。久大線は美しい風景の山間部の景色を満喫することができる。豊後森などの駅のホームに出て線路の先を見ると、上り線も下り線のその線路が見えなくなる先までの風景が何とも言えない郷愁を感じるような美しさである。


    信輔は久しぶり竹馬の友・辰ちゃんと芳郎君に会った。二人は「湯の平」駅で待ってくれている。待ち合わせ場所が「湯の平」に決まったのは、信輔が其処に行ったことがなかったし、二人とも「湯の平」に久しぶり行ってみたかったからである。

    特急は定刻通り、10時10分過ぎに「湯の平」に到着した。列車到着を待つ間、辰ちゃんと芳郎君は片言交じりの英語で新婚旅行らしい韓国人のカップルと語り合っていた。信輔が下車してホームに降りるのと入れ替わりに、その韓国人カップルが列車に乗り込んだ。列車が走りだすと辰ちゃんらが手を振って見送っている。先方の二人も車内から手を振って応えている。

    温泉地・湯の平は群馬の伊香保に似た感じの坂道を登るところに温泉宿がある。昔は入湯客で賑わっていたらしいが、近年あちこちで温泉が出るようになって客は減ったらしい。今日は水曜日ということもあって石畳の坂道を歩く人は数える程しかいない。それでも土日は多少賑わっていたらしい。件の韓国人のカップルは昨夜この温泉地のどこかの宿に泊っていたのだろう。

    入湯料200円で入れる温泉が通りに沿って2、3か所ある。それが造られてからあまり年数が経っていないと思われる温泉を見つけ、そこに入る。そこは温泉旅館組合が共同で経営しているところという。その温泉は渓谷堂本舗の隣にある。渓谷堂本舗の御主人が出てきて辰ちゃんと掛け合い漫才のような会話を交わす。

    御主人は齢の頃80歳ぐらいであるが、声に張り合いがあり立ち振る舞いも元気である。昔は男女別々になっていたが狭いので改装し、二つの湯船を一つにして更衣室も広くしたという。信輔が「ここはかけ流しですか?」と聞くと、御主人は「かけ流しですよ。お湯が溢れているので竹の樋で捨てていますよ。」と言う。一人200円づつ払って中に入る。窓の外に森が見え、下に大分川の源流となる谷川が威勢よく流れ下っているのが見える。

  3人以外の入湯客はいない。3人いろいろ語り合いながらゆっくりといした時間を過ごす。信輔が記念にと携帯電話のカメラで写真を撮る。「辰ちゃんと芳郎君、其処に並んで。下の方は写さないからな。」「写ってもいいよ。」「写すよ!」再生してみると下の方も黒く写っている。信輔はこれ再生して送ってやろうと内心ニヤリとする。「携帯は水に浸かると一発で駄目になる」と言いながら携帯を辰ちゃんに渡す。今度は芳郎君と信輔が並んで写る。再生してみるとレンズが湿っていてぼやけている。

2010年10月10日日曜日

母・ともゑ (20101010)


  信輔は母・ともゑのことを物語にした。物語の登場人物は実名もあるが偽名もある。事実が不明なことは想像して肉付けしている。そういう意味でこれは小説的であるとともに物語に近い小説である。信輔は1か月かけて毎日その小説を書き続けるうちに、この齢・73になるまでずっと胸につかえ続けきていたものが消えたことに気付いた。

    この小説を書き始めるとき、信輔はその目的を次の三つに絞っていた。一つは信輔が10歳のとき33歳の若さで死んだ生母への追善供養、二つ目は信輔の自分史、三つ目は信輔の子や孫たちに自分たちの祖父母、曾祖父母たちがどんな人たちであったか、その時代の状況はどんなであったについて知ってもらうことである。

  信輔は継母・八千代の介護のため毎月のように帰郷している。1週間前、横浜の信輔のところに突然電話が入った。「ヘルパーの山内です。お母様がちょっと熱を出していて、血圧も高いです」と報告してきた。信輔は妻と一緒に急きょ帰郷するためインターネットで飛行機の切符の手配をし、土曜日であったがいつもお世話になっているかかりつけの病院に電話を入れて入院させたいと先生に伝えてくれるように依頼し、いつも使っているタクシー会社に電話を入れて八千代を迎えに行って病院に連れて行ってくれるように頼んだ。

    91歳の継母・八千代は入院して点滴を受け、白血球数が初め1600まで下がっていたのが入院1週間後1900まで回復し、赤血球数も正常に近い値に戻った。八千代は6年前大腸にリンパ腫が発生し、治療を受けているので造血能力が落ちている。白血球を増やす薬も使えない。免疫力が低下しているのでちょっとしたことで体調を崩しやすい。もし信輔の生母・ともゑが生きているとすればともゑは97歳である。その場合、ともゑは今の信輔にとってどのような母親であろうかとふと思うことがある。

  それはともかくとして、信輔は八千代の介護のため毎月のように帰郷し、その度に在郷の小学校・中学校時代の同級生たちに会っている。この度も信輔の帰りを楽しみしている芳郎が辰夫と一緒に湯平温泉で会って、昼食と入浴をして夕方までそこで遊ぶことにしている。湯平には千葉に住む同級生の洋介が帰郷の度に泊っている宿がある。

    3人の話題によく登場するのがその洋介と神奈川の座間に住んでいる貞行のことである。洋介も年に1、2度帰郷しているが貞行は郷里を出て以来殆ど帰郷したことがない。今年の4月の同級会のとき何10年ぶりかに帰郷しただけである。皆60年前同じ鶴崎中学校に入った同級生たちである。60年前13歳だった男たちの話題には信輔が小説に書いた女子の同級生のことも上がる。そのような竹馬の友だちがいるからこそ、信輔は継母の介護のため帰郷することが楽しみになっている。

    それもそう長くは続かないだろう。人生はそのようなものである。私小説を書くということは自分が生きてきた証を遺すためでもある。母・ともゑのことについて書いて遺す。それが信輔の「役割」の一つになっている。信輔にはまだ他に幾つかの「役割」があるが、すべての「役割」を終えようとするとき信輔は微笑んで「あの世」に逝くことだろう。

2010年10月9日土曜日

母・ともゑ (20101009)


    人は、自分の「役割」を自覚することができれば、その人は幸せである。傍目にその人がどのように不幸せそうに見えても、当の本人は幸せである。信輔の母・ともゑは自分が幸せであったから苦しみ耐えることができたのである。信輔の前では決して苦痛の表情を見せることはなかったのである。

    昔、武士が切腹するとき、作法に従って淡々として自らの腹を切り、人によっては介錯さえも拒んだ。切腹する前に辞世の歌を詠み、後世に遺して逝った。その武士が自らの「役割」を自覚しているからこそ、自分の人生の最期を美しく飾ることができるのである。

    昔は「形」が重んじられていた。信輔が子供の頃、毎朝顔を洗って仏様にお参りし、居間に集まっている大人たち一人一人に対面して両手をハの字に揃えて床の上について、一人ひとりの名前を言って「お早うございます」と挨拶していた。それは祖父・又四郎の家のしきたりだった。ともゑ亡き後、又四郎が信輔の精神教育を行っていた。

    このように「形」を重要視する文化が日本にはまだ残っている。それは「道」という字がつく習い事の世界にある。武道にせよ、茶道にせよ、礼節が重んじられる。そのように「形」を重んじる文化は他国にはない。日本人は今一度昔の精神文化を見直すべきときに来ている。アメリカとの戦争に敗れ、日本人はアメリカの文化に汚染されてしまった。その結果、社会でも家庭でもいろいろな歪が生じてきている。昔の良き日本の文化を見直すことが、日本の将来のために必要である。

    信輔の母・ともゑは信輔が何か言われてそれを肯定するとき「うん」と頷くと、「‘うん’ではないでしょう?‘はい’と言いなさい」とよく叱られていたものである。信輔の母も親子の間の親近感と距離感のバランスをとるのが難しかったかもしれない。今の日本の家庭では、特に母親は自分の娘を友だちのよいにしている情景をよく見かける。その一方で親による子供への虐待が増え続けている。

 

  人は、自分の「役割」を自覚することさえできれば、他人がどう言おうと本人は幸せである。生まれた時から五体不満足であっても、「世の光」となって人々に感動と喜びを与えている人がいる。肢体不自由な詩人で画家、盲目のピアニスト、スポーツ選手など世の中で活躍している人たちは大勢いる。その一方で、五体満足で何一つ不自由でもないのに罪を犯し、牢獄につながれ、死刑になる人もいる。

  お釈迦様は「業(ごう)」と六道輪廻を説いておられる。この世は「生老病死の苦」やあらゆる苦しみがある。修行して「真理」を悟り、解脱すればそれらの苦しみは無くなると説いておられる。キリスト教でも旧約聖書の『ヨブ記』には似たようなことが書かれている。善良なヨブが言いつくせぬ苦難に遭い、見かねた友人らがヨブに神を呪うことを勧めたが、ヨブは時に自分の出生や現状を恨みながらも決して神の仕業を疑わず、総ては神の思し召しであると考え、神への帰依の心を一層強くしてゆき、最後に幸せを得ている。

2010年10月8日金曜日

母・ともゑ (20101008)

 
    人は、この世に生れて来るとき、それぞれある「役割」を担って生まれてくるものである。人はその「役割」を自覚することができれば、自分の人生を最も価値あるものにすることができるものである。信輔の母・ともゑは今際の時、わが子・信輔に対し、人としての「役割」について自らの身をもって教えたのである。そのことを信輔は73にもなって初めてはっきりと認識することができた。

  一口に「役割」といても、段階に応じていろいろな役割がある。人としての「役割」、国民としての「役割」、社会人としての「役割」、職業人としての「役割」、父親または母親としての「役割」、子供としての「役割」、夫または妻としての「役割」、男性または女性としての「役割」などが考えられる。ミツバチやアリの社会では、例えば「女王蜂」「働き蜂」「兵隊アリ」のような役割があり、彼らはその役割を果たして一生を終る。

  人の集合・組織体である国家についても国家としての役割がある。日本国憲法前文には、日本国家のあり方の原則が書かれている。その一文に「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」という箇所がある。

  アンダーラインの部分は理想である。しかし現実には中国や韓国やロシアのように、我が国固有の領土である尖閣諸島や竹島や北方四島を「自国の領土」であると公然と主張する国々に「公正と信義」があるだろうか?国家の役割の第一は我が国固有の領土・領海・領空を侵犯させないことである。そのことこそ憲法前文に書かれなければならないのではないだろうか?

  それはさておき、ここで考えるのは「人としての役割」である。人は百人百様、いろいろな運命を背負ってこの世に生を享けている。五体満足、知能・性格も優れて生れてくる者もおれば、五体不満足、知的障害、精神障害をもって生まれくる者もいる。生まれて来た後の育てられ方、家庭環境、社会環境なども千差万別である。成長過程でも大人になった後でも誰も予測できないいろいろな状況が起きる。

    信輔の母・ともゑも自分の運命を予測できず、傍から見るに堪えないような苦しみの中でこの世を去った。今際の時、信輔に「お兄ちゃん起こしておくれ」と言い、今度はがんが転移したこぶだらけの「背中をさすっておくれ」とは言わず、「お仏壇からお線香を取ってきておくれ」と言い、「東に向けておくれ」と言った。線香に火をつけ、東に向かって手を合わせ、「お父さんを呼んできておくれ」と言った。

  ともゑは自分の最期のとき、わが子・信輔に自らの身をもって人の生き方と死に方を教えたのである。その時子供であった信輔には母の教えを理解することはできなかったが、強烈な印象だけを信輔に与えることはできた。33歳でこの世を去るともゑは、そのようにして「人としての役割」を果たしたのである。

2010年10月7日木曜日

母・ともゑ (20101007)


  戦後65年も経つ間に日本人は戦前自分たちの父祖が命がけで築こうとしたことに目を背け、父祖たちが悪いことをしたという自虐的史観を植えつけられて今日まできた。その間、共産党一党独裁の国々では一貫した戦略で自国の国民を愛国的になるように強力に指導し、自国を富ませ、自国を誇りに思うようにさせるためあらゆる方策を実行してきている。

    一方わが国では国民に愛国心を持たせ、国に誇りを持たせる教育をおろそかにし、経済活動を最優先させてきている。日本人は隣国を観るにあたり、その国の指導層と一般国民を分けて観るということをせず、個々に触れ合う人々の考え方や態度、ある意味では市民生活全般の文化の面だけを観てその国の国家としての考え方や態度を推し量り、親近感を抱こうとする。相手の国の(指導層)は始終一貫した原則と戦略で我が国に対処しているのに対し、我が国の政府にはそのような原則や戦略を持たずに今日まで来ている。

    わが国の政府がそのようにあるだけではなく、一部の日本人は隣国の政府のそのような原則や戦略に沿った行動をし、その国の反日・愛国教育に肩入れしている。先の国会での尖閣諸島問題に関する集中審議で明らかにされたが、井上清という歴史学者は1972年に『「尖閣」列島--釣魚諸島の史的解明』を発表し、日本の尖閣諸島領有は国際法的に無効であると主張した。

    彼は既に没しているが昭和13年(1938年)生まれで信輔と同年輩である。70歳前後の日本人たちが自分たちの父祖たちの事跡を否定し、父祖たちがアジアで悪いことをしたと思い込み、或いは思い込まされ、この日本の指導的立場にあった。次の時代を担う子孫たちにとってこれは不幸なことであった。

    戦前派の人で元日本社会党委員長であった田邊誠は、南京大虐殺紀念館(中国での正式名称は「侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館」)の建設に貢献した。彼は1980年代に南京市を訪れ、その記念館の建設を自ら求め、当時の総評から3000万円の資金を調達して南京市に寄付した。その記念館の設計は日本人が行っている。始終一貫した原則と戦略をもって行動する中国の指導層・共産党政府はその記念館を最大限に活用し、近代史教育と称して若い世代に反日感情を植えつけている。その延長線上に今回の尖閣諸島問題が起きている。

    国家が国民に対して愛国心の教育を積極的に行うことは決して非難されるべきことではない。むしろ奨励されるべきことである。古来歴史が示すとおり日本は常に中国・朝鮮半島・ロシアとは緊張関係にあった。それは今後も続くだろう。戦後の日本の指導層が自虐的史観に陥り、日本国民に対する愛国心高揚の施策・教育を怠ってきた結果、竹島や尖閣諸島や北方四島の問題となって起きているのである。

    国家が国民に対して愛国心教育を行うことは良い。しかし中国がその記念館に旧日本軍の行為について事実に反することを展示することは日本人として不愉快である。そもそも日本は侵略国家ではない。東京裁判の結果、侵略国家とされてしまったのである。

  
 信輔は父・一臣と母・ともゑが人生の一時期、朝鮮で教育に従事したことを誇りに思っている。信輔はこの父母の追善のため自分の残りの人生を捧げたいと思う。

2010年10月6日水曜日

母・ともゑ (20101006)


  ともゑが戦前朝鮮半島に居住していた時、ともゑにとって東の方角は皇居がある方角であり、自分の父方の先祖が出た方角でもあった。ともゑが今際の時に東の方角を礼拝したのは突然思い付いてそうしたのではなく、ともゑの過去の習慣がそうさせに違いない。

    信輔はともゑの葬式に来ていた丹生の小父さんが翌朝四方に礼拝していたのを覚えている。信輔は子供の頃母・ともゑが東方を礼拝したことを見たことはなかった。しかし、ともゑは誰にも分らぬように毎朝東の方角に向かって手を合わせていたのではないかと思う。

  須美子は「ともゑ姉は20歳前の若い時でも、とても礼儀正しく、物事をよくわきまえていた。言葉づかいがとても丁寧だった。どう言ったらよいか、とにかく普通の人ではなかった。とてもしっかりしていたよ。」と信輔に語ってくれた。信輔の父・一臣も信輔に「お前の御母さんは、何をするにも段取りがよく、無駄がなかった。」と言ったことがある。信輔が想像するに、多分母・ともゑは昔の武家の女性のようなところがあったのであろう。

  信輔が想い出すことがある。信輔は叔母たちから「お前は言葉使いがとても良かった。」と言われたことがある。そう言われたとき既に信輔の言葉使いは大分弁という方言を使っており、朝鮮から引き揚げて来た当時のようではなくなっていた。家長制度もなくなって家庭の中の秩序も崩れかけていた。信輔自身自覚が全くなかったが、信輔はいつのまにか戦前まで身につけていた品格を失ってしまっていた。

  信輔は祖父・又四郎の家にいた時、毎朝顔を洗って仏壇にお参りした後、居間の火鉢の周りに坐していた祖父らに朝の挨拶をしていた。「お爺さんおはようございます。お婆さんお早うございます。お父さんお早うございます。直叔父さんお早うございます。」と欠かさず挨拶していた。その後、座敷を箒で掃いたり、板の間や敷居や柱などを雑巾がけしたり、庭を掃いたりしていた。それは、母・ともゑが亡くなった後のことであった。祖父たちは信輔らにそのような日課を与えることによりともゑな亡き後の子どもたちの躾をしていたに違いない。大人たちは信輔ら子どもたちが仏壇にお参りする頃、皆火鉢の周りに集まり、信輔らの挨拶を受けるようにしていたのである。

  盆や正月や村のお祭りのとき、嫁ぎ先から叔母たちが挨拶に来ていた。信輔はそのときの様子を鮮明に覚えている。叔母たちは個々にやってきたのであるが、実家に来た時先ず仏さま、つまり仏壇にお参りし、その後、居間の火鉢の周りの上座に坐している祖父・又四郎と隣に座っている祖母・シズエに作法に従って両手をつき、丁寧な挨拶をしていた。

  信輔が子供時代過ごした大分の旧鶴崎地方では未だにそのような風習が残っている家がある。残っているといっても丁寧で格式ばった形ではなく、照れくさ交じりの砕けた形になっている。それでも訪問先で先ず仏壇にお参りし、それから一応両手をついて挨拶を交わす。仏壇にお参りするとき、祭壇の前に時と場合によって百円玉とか千円札を置くのがしきたりである。仏壇は古い家ならどこでも縦横1間幅の中に納められる大きなものである。信輔は、仏壇はその位のものでないとお参りしても気持ちが落ち着かない。

2010年10月5日火曜日

母・ともゑ (20101005)


  そのほか、同じタイトルの記事から以下のとおり同様に引用する。この記事が書かれた時点では防衛庁(現在の防衛省)及び陸上自衛隊駐屯地は市ヶ谷にあった。

  金貞烈将軍、日本陸軍士官学校(五十四期)、航空士官学校戦闘機科卒業、大東亜戦争はフィリピン作戦で武勲を上げ、三式戦「飛燕」の戦闘隊長として南方戦線で活躍した日本陸軍大尉。韓国空軍生みの親といわれる。

  李亨根将軍、日本陸軍士官学校(五十六期)、韓国軍第三軍団長として朝鮮戦争で武勇を馳せる。新宿区市ヶ谷台の自衛隊駐屯地(現防衛庁)に桂の木が植えられている。その傍らに立つ標柱には下記の言葉が書かれている。

    表面「桂恩師のために 第五十六期生 李亨根」、裏面「韓国陸軍大将」、側面「一九六八年 四月二十五日 韓国京城」。そして、一九九三年(平成五年)十二月、同期生の蔵田十紀二氏に宛てた書簡として「故桂区隊長殿の御逝去で悲痛窮りない気持ちです。特に御遺族様の御心境を思う時、胸の裂ける思いです。貴兄のこともしばしばお話しておられました。お互い健康に留意し志気旺盛に務めましょう・・・・・・」

  李亨根将軍とともに陸士五十六期として昭和十四年十二月一日に入学した総人数約二千四百名のうち千名近い戦死者を出している。同期入校者には四名の朝鮮出身者が含まれている。その中のおひとりに崔貞根少佐がおられる。

  崔貞根少佐(日本名 高山昇)は日本陸軍士官学校、航空士官学校と進み、卒業後、飛行第六十六戦隊(九十九式襲撃機部隊)に配属、フィリピンのレイテ沖作戦に参戦後、沖縄作戦に参加、昭和二十年四月二日、敵駆逐艦に体当たり散華した。二階級特進にて少佐、崔貞根少佐は陸軍士官学校在校中、同期生のひとりに「俺は天皇陛下のために死ぬということはできぬ」と、その心情を吐露したという。(同期生追悼録「礎」より)

  同期の齋藤五郎氏は陸士の同期会で、李亨根氏にただしたところ、「その気持ちは貴様たちには判らんだろうなあ、それが判るときが、両国の本当の友好がうまれるときだ」と答えたそうである。

 

  日韓併合など近代の歴史について、信輔はこれまで殆ど学んで来なかった。今70歳前後以降の日本人は東京裁判の結果植えつけられた自虐的歴史観により、自分たちの父祖が悪いことをしてきたと思い込んでいる人たちが多い。信輔自身は自分の子供時代の体験から、そのような立場に対して常に批判的であった。

  母・ともゑが今際の時、「御仏壇からお線香を取ってきておくれ」「東を向けておくれ」と言った意味を、信輔はこの齢・73歳になって初めて理解している。ともゑはなぜ「東を向けておくれ」といったのか。その方向は極楽の世界があるとされる西方浄土の方向ではない。その真反対である。地理的には皇居がある東の京の方向である。ともゑは今際の時、遺してゆく信輔に対して意図的に自分をその方角に向けよと指示したのである。

2010年10月4日月曜日

母・ともゑ (20101004)


    その1期後輩には金錫源(キムソクウオン)大佐がいる。日本兵1千名を率いて当時の支那軍を蹴散らした。二人とも創氏改名などしてはいなかった。以下、Googleで検索した『朝鮮における護国の英雄の末路』より、金錫源将軍に関する全文を引用する。但し「です、ます」調を「である」調に変える。

  明治四十二年、大韓帝国武官学校生徒として日本に留学。陸軍幼年学校に編入、陸軍士官学校(二十七期)卒業。創氏改名せずに、日本陸軍大佐まで栄進。支那事変において大隊長(陸軍少佐)として山西省で、連隊の右翼を担当し全滅覚悟の激戦を指揮し白兵戦で支那軍を殲滅せしめた。この勇戦に対して金鵄勲章の功三級を授与された。

  戦後は朝鮮に帰国し、韓国軍創設時に乞われて第一師団長に就任。親日狩りが横行し、准将にての就任。ときの李承晩大統領に対しても面前で直言してやまないために、予備役に廻された。

    予備役になった時に、北朝鮮の侵攻を予知して「目標三十八度線」を唱えて、大田で青年有志を集めて義勇軍を組織。昭和二十五年六月二十五日北朝鮮軍の侵略により、首都ソウルを守る第一師団長として再び現役復帰させられる。その時の参謀長は元日本陸軍少尉(後の駐日大使)崔慶禄大佐である。

  勇将金錫源准将の元には元日本兵である韓国人が我先に全国から集結した。そして、米軍軍事顧問団の制止も聞かず、日本刀を振りかざし最前線で陣頭指揮を取り続けたそうであるが、一九五〇年八月十七日に、この時には第三師団の指揮を取っていた金将軍もついに浦項よりの撤退の事態に追い込まれた。

  米軍の艦砲射撃による援護の中、将兵が用意された四隻のLSTに乗り込んで次々と脱出していくが、一隻のLSTだけが離岸しようとしない。最後の一兵を収容するまで動こうとしない金将軍の乗船を待っていたのである。

    無事撤収を終え、その最後のLSTに乗り込んだ金将軍を驚かせたであろうのは、アメリカ海軍のLSTの乗組員は、かっての戦友である旧日本帝国海軍将兵であったことであろう。朝鮮戦争に参戦したのは、掃海艇だけではなかったのである。

  金錫源将軍は上陸を前にこれまで作戦指導中に片時も放さなかった日本刀を副官の南少尉に手渡したそうである。(「最後の日本刀」『丸』五九六号潮書房)

  金錫源将軍の三人の息子のなかのお一人金泳秀日本陸軍大尉(陸士五七期)は昭和二十年フィリピン戦線で壮烈な戦死を遂げて靖國神社に祀られている。昭和五十五年に旧日本陸軍将校の会である偕行社の総会に招かれた時に、金将軍は「自分の長男は戦争に参加して戦死した。それは軍人として本望である。本人も満足しているであろう」と挨拶されたそうである。(古野直也氏の証言)

    以上引用、参考「親日アジア街道を行く」井上和彦著 扶桑社。「日韓共鳴二千年史」名越二荒之助編著 明成社。

2010年10月3日日曜日

母・ともゑ (20101003)


    一臣は妻・ともゑが死んでその悲しみを忘れるため一生懸命に働いていた。その悲しみが薄らいできたころ、一臣は師範学校時代の先輩や同級生たちの奔走のお陰で教職に復帰することができた。しかし、初めから正教員としてではなく、助教諭という資格であった。一臣はその後、正教諭になることができ1級の免許も得ることができた。初めは玖珠郡の分校の校長を皮切りに幾つかの校長を務め、定年まで働くことができた。その陰には、信輔の継母となった八千代の内助の功があった。

    一臣は富久子が子宮外妊娠で死んだとき仏壇を買った。富久子は終戦時2歳で、朝鮮から引き揚げるときともゑの背に負われていて、小倉の駅のホームに降りるとき仰向けに転倒し、ホームに体ごと衝突したが幸い事故にはならなかった。20歳になって叔父・業政の世話で、叔父の家から通勤しながら東京都内の会社に勤めることができ、短い期間であったが幸せなOL生活を送ることができた。その後、叔父・幸雄の世話で福岡で瓦製造業を営む会社の社長の長男に嫁ぎ、妊娠し人生で最も幸せな時期を送っていた。その富久子が死んだので仏壇を買ったのである。

    一臣は生前自分の戒名を貰っていた。その戒名札は仏壇に納められていて、その脇にともゑの戒名札があった。一臣は寺の納骨堂に自分の納骨壇を持っていた。一臣が死んだ後、信輔は一臣の遺骨をその中に納めたが、そのときその納骨壇の中に「ともゑ」と書かれている紙包みを見つけた。開いてみるとそれは一個の石ころであった。その石ころはともゑの墓がまだ石積みと竹筒だけであった頃、一臣がそのともゑの墓から石を一個持って帰っていたものであった。ともゑの墓は一臣が白血病で入院中、信輔の要求で哲郎の墓とともにきちんとした墓石のある墓になった。一臣の納骨壇の中には哲郎と書かれている紙包みもあった。一臣は富久子が死んだとき仏壇を買ったが、ともゑと哲郎の墓は埋葬時と変わらぬ状態にしたままであったのである。一臣は信輔の継母となった八千代に遠慮していたのかもしれない。或いは、ともゑや哲郎のことは、自分の長男・信輔が何か言うまで放って置こうと考えていたのかもしれない。



    一臣もともゑも人生の一時期、戦前の教育体制下で国家に有用な人材の育成に携わった。当時は朝鮮籍も日本人であり、教育の面において日本籍であろうと朝鮮籍であろうと一切差別はなかった。朝鮮籍の女学生や小学生に対して日本人に接することと全く同じように接し、部下の朝鮮籍の教員に対しても、近所の朝鮮籍の住民に足しても決して偉ぶることなく接していた。信輔自身、当時同級生が朝鮮籍であったことを全く意識していなかった。

    それは陸軍士官学校でも同様であった。ただし、海軍兵学校では終始朝鮮籍の者の入校を認めていなかった。陸軍士官学校26期生で朝鮮名のままで帝国陸軍の中将に栄進した人で洪思翊(ホンサイウ)というお方がいる。彼は戦後マニラの軍事裁判で、戦争ならば起きうる部下による敵性国人の殺害という責任を負って死刑になった。

2010年10月2日土曜日

母・ともゑ (20101002)


    刺身のお茶づけは醤油、ごま、みりん、お酒、ネギなどで作る。味がしみとおった刺身を白米の暖かいご飯の上に載せ、刺身を浸けた汁も少しかけてその上に熱いお茶をたっぷりかける。そしてやや時間をおいてから食べる。

    信輔は妻・幸代がそのような茶づけを作ってくるたびに、自分が子供のころ入院中の母・ともゑが作ってくれたお茶づけのことを想い出す。当時、白米のご飯をそのようにして食べることは贅沢中の贅沢であり、入院中の母がそれを作って食べさせてくれたことは特別なことであったが、子供であった信輔には、母・ともゑが自分は食べずに信輔たちに食べさせてくれたということや、それが一度きりであったということしか覚えていない。

    白米はシズエが普段自分は食べないのに夫、つまり信輔の祖父・又四郎の目を盗んでわざわざ息子・一臣に持たせてやったものであった。当時、まだ家長制度が残っていて、食事のとき家長である又四郎だけが別の御ひつで白米のご飯を食べ、シズエ以下家族は全員麦ごはんであった。食事中一切私語は禁止で、皆黙々と食べていた。長男であり、教師として朝鮮にも渡り外の空気を吸っていた一臣は、内心そのような風習を嫌っていたに違いないが、師範学校を出て以来実家を飛び出し、日本が戦争に負けてやむなく父・又四郎の家に厄介になっている身であるので、それは仕方ないことであると思っていたに違いない。食卓では正面の又四郎の右隣に座し、左隣にシズエが座し、一臣とシズエは向かい合うかたちであった。信輔らは家族の末席に序列に従い座していた。

    一臣は教師の職に復帰することは諦めかけていた。当時の教員採用の年齢基準は35歳以下であったから、すでに37歳になっていた一臣には日本の敗戦による特殊な状況であったとはいえ、教師への復帰は不可能に近かった。一臣は、父・又四郎の家にいても、それまで長男として実家にいて父・又四郎に手伝っていたわけでもなかったので、家督は末弟・直紀に継がせる腹であった。一臣は妻・ともゑを失った後、遺された3人の子どもたち、つまり信輔と信直と富久子を養うため、全く不慣れな保険の営業の仕事に就いた。

    中古の自転車を手に入れ、さつま芋を煮てつぶしたものを詰め込んだ弁当を手にして、知人・友人・親戚の家や見ず知らずの家に飛び込んで必死に営業活動をした。しかし、所詮は武士の商法、多少の顧客は取れても頭打ちとなり、ついには自ら顧客の肩代わりをして借金を重ねてしまった。

    それを補てんするため、一臣は実家の倉庫の裏に豚小屋を造り豚を飼っていた。豚を飼うにも餌が必要である。豚を太らせるだけの餌を確保することは大変なことであったに違いない。一臣はある日その豚の餌にするため、たまたま鶏小屋の上の軒下にいて卵を狙っていた‘家主’と呼ばれる大きな青大将を見つけてそれを捕え、なたで輪切りにして与えたこともあった。

    当時ヘビはどこにもいた。田圃に水を引く水路にはカラス蛇という赤い斑点があるヘビをよく見かけたものである。山にはマムシもいたが、人々はそれを捕えて皮を剥ぎ、日干しにして貴重な栄養源にしていた。信輔もマムシの骨を焼いて食べたことがある。

2010年10月1日金曜日

母・ともゑ (20101001)


 それは母・ともゑが別府の病院に入院する前の頃のことであった。信輔と信直は一臣に連れられて空襲で焼け野原になっていた大分の町を歩いたことがあった。街角で傷痍軍人が白い服を着て杖をついて、道行く人々に憐みを乞うていた。

  その時・36歳の一臣はともゑの入院費を工面するため、師範学校時代の級友や知人などを訪ね歩いていた。幾ばくかの金は工面できたのであろう。やがてともゑは別府の病院に入院することができた。すでにがんは進行していて手遅れの状況であった。それでもともゑはがんの摘出手術に僅かの希望をつないでいた。

  ともゑの弟・業政はソ連に抑留されていた。ともゑの妹・須美子は亡くなった母、つまり信輔の母方の祖母・まさの姉、それも既に他界してしまっている縁戚や知人の家を転々としながら教師に復職する道を探っていた。ともゑも須美子も業政がいない状況では親身になって頼れるような親族は何処にもなかった。

  ともゑが別府の内田病院に入院している間、須美子は度々その病院を訪ねてきてはともゑの身の回りの世話をしていた。須美子はその病院までは山越えをして、2時間半もの長い時間をかけて歩いて来ていた。それは須美子がまだ若かったからできたことである。須美子は姉・ともゑの、身の回りの世話をしながら、自ら教師の職探しに奔走していた。

  ともゑの乳がんは両乳房に発生していた。既に手遅れであったがともゑは片方づつがんの摘出手術を受けた。ともゑは手術後の手当てを受けるため、病室から治療室に通っていた。その時ともゑは眉にしわを寄せて胸を手で押さえながら病室に戻っていた。

    信輔の記憶ではそれはともゑががんの手術を受けて、麻酔が切れたあと自力で病死に戻っていたように思っていたが、今考えてみるとそれは無理なことで、ともゑが胸を押さえながら戻って来たのは術後の手当てのためであったに違いない。信輔はともゑがある時は左の胸を、次には右の胸を押さえながら病室に戻っていたことだけは鮮明に記憶している。

    信輔はともゑのがんの白い塊を見たことを覚えている。それは大きな塊であった。ある日、父親・一臣は信輔を連れて院長室に行ったことがあった。その時一臣は母、つまり信輔の祖母・シズエが又四郎の目を盗んで一臣に渡した野菜を抱えていた。一臣はともゑの入院費の支払いにも困っていたに違いない。院長にその野菜を渡しながら何やら言い訳のようなことを話していた。

    しばらくして院長室を出て中庭に面した廊下を行くとき、中庭の池に亀が白い塊のようなものに食いついているのを見た。信輔はそれが母・ともゑの乳房から摘出したものであったに違いないと思っていた。

    ある日ともゑは誰かに依頼して買って来て貰ったに違いない魚の刺身をお茶漬けにして信輔と信直に食べさせてくれたことがあった。それは一度きりだった。ともゑは自分の命がもう長くないことを悟り、せめて二人の息子たちに母の手作りの美味しいものを食べさせてあげようと思ったに違いない。白い暖かいご飯の上にその茶漬けを載せ、熱いお茶をかけてくれたものは、信輔が73歳になった今ても鮮明に思い出すことである。

2010年9月30日木曜日

母・ともゑ (20100930)


  日本が戦争に敗れた時から、朝鮮にいた日本人と韓国人の立場が変わった。朝鮮にいた日本人の教師たちはそれぞれ朝鮮での勤務履歴を証明する書類を貰い、日本に引き揚げた。信輔の父・一臣は9月末、帆船で引き揚げてきた。引き揚げの船を待つ間、引き揚げ者達は須美子が語ってくれたように、釜山に造られたテントによる臨時の収容施設で暮らしていたのであろう。信輔は父・一臣から帆船で引き揚げてきたということ以外、何も聞いていない。しかし当時36歳であった一臣は、他に引き揚げ者が多かったので汽船には乗ることはできなかったらしい。元気な者は帆船などで引き揚げてきたのだと想像する。

  信輔は息子が韓国に事務所がある会社に勤めていたとき、妻・幸代とともに韓国旅行をしたことがある。そのとき、信輔は終戦前まで住んでいた醴泉に行き、当時の醴泉国民学校を訪れてみたいと思った。信輔と幸代は息子が韓国人の同僚と一緒に案内してくれて醴泉まで行くことができた。しかしその時当時の国民学校が何処にあったのかよく調べていなかったし、柳川という名前が付いている小学校であるということも事前に調べてもいなかったので、当時の柳川国民学校を見つけることはできなかった。しかしそれらしい小学校を見つけることはできた。それは当時の柳川国民学校に良く似ていた。その小学校は門を入って左側に住宅があり、校庭の左手に台地があった。台地には果樹は植えられてなかったが、小さな樹が並んで植えられていた。右側は山地であった。住宅は日本風の建物ではなかった。何か倉庫のような形をしていた。

    その小学校ではたまたまその日は休日であったに関わらず何か催し物の準備が行われていて、校長先生も教頭先生もおられた。信輔たちはその小学校の戦前の古い写真集を見ることができた。集合写真の中央にいる人は日本人の校長であるに違いない。写っている子供たちも戦前の日本の子どもたちと全く変わらない。坊主頭で皆しっかりした引き締まった顔つきをしている。韓国人先生方も含まれていたに違いないが、皆同様の顔つきである。

    校長室に案内されて、校長が歴代の校長の名前が書かれている掲示板を示してくれた。それは校長室の壁に掲げられていた。歴代校長は昭和20年9月まで、伊地知某などの日本人の名前が書かれていた。10月からはハングル文字の名前が書かれていた。日本人の名前の中に信輔の父の名前はなかった。旧柳川国民学校はもうなくなっているのかもしれない。

    終戦後9月まで、信輔の父親もその学校に残っていたのかどうかは今となっては確かめようもない。いずれにせよ、信輔の父・一臣は終戦後すぐには引き揚げることができなくて、9月末になって引き揚げてきているのである。

 

  戦後、小学校の教員の給与は米1升分程度だったらしい。一臣は父親、つまり信輔の祖父・又四郎の家に居候していた。妻、つまり信輔の母・ともゑが乳がんを患ったこともあったし、すぐには教職に復帰することもできなかったのであろう、一臣は又四郎に対して肩身の狭い思いをしながら実家の農業を手伝ったり飼っていた牛の世話をしたりしていた。

2010年9月29日水曜日

母・ともゑ (20100929)


    そのような確固たる考え方もなく、日本人はA級戦犯として処刑された人たちを、その処刑された人たちによって戦地に送られ命を失った人たちと同じ処遇で靖国神社に祀ってしまった。その結果、未だに日本人はアジア、特に中国や朝鮮半島の人たちから誤解され続けている。「すまなかった」と頭を下げ続けている。

    戦前の日本に反感を持つようなことがあったため、反日的になった韓国の初代大統領・李承晩は第4代国王となった世宗の兄・譲寧大君の16代末裔である。譲寧大君は李氏朝鮮の第3代国王・太宗((1397年-1450年)の長男である。この太宗は初代国王李成桂の五男で本名を李芳遠(イ・バンウォン)という。初代国王李成桂は女真族であったという。

  女真族は満州族と言われる種族で中国の清王朝を建てた。その女真族は寛仁3年(1019年)3月27日、船約50隻(約3000人)の船団を組んで突如として対馬に来襲し、島民を殺害し放火をして暴れまわっている。国司・対馬守遠晴は島から脱出し大宰府に逃れた。

  女真族の賊徒は對馬に続いて壱岐を襲撃し、老人や子供を殺害したうえ壮年の男女を船にさらい、人家を焼きはらい牛馬など家畜を食い荒らした。知らせを聞いた国司の壱岐守・藤原理忠はただちに147人の兵を率いて賊徒の征伐に向ったが、3000人という大集団には敵わず玉砕してしまった。

  賊徒はその後筑前国(現在の福岡県)怡土郡に襲来し、4月8日から12日にかけて現在の博多周辺まで侵入し、周辺地域を散々荒らし回った。これに対して大宰権帥・藤原隆家は九州の豪族や武士を率いて撃退した。

  この事件は、蒙古人の元(当時の中国)が、自ら支配していた朝鮮半島で船を造らせ、鋼線半島の人々を兵士として雇い、北九州に来襲した事件の250年ほど前の事件である。当時女真族の国は「刀伊」と呼ばれ、その事件は「刀伊の入寇」と呼ばれる。

  日本と中国大陸・朝鮮半島の間には古来ずっと緊張関係が続いて来ているのである。そのことを東京裁判の結果魂を抜かれた日本人は忘れてしまっている。鳩山元総理や小沢元幹事長などは、そのような歴史観もなかったため、この日本国を今危うい状況に陥れてしまっている。彼らは今この危機のとき、国の為何か一つだに役に立とうとはしていない。



    戦前戦後を通じた諸状況の推移のなか、「朝鮮」という語は韓国の人たちにとっては日韓併合を許した李氏朝鮮を想起させるものとして好まれない語となっている。1948年(昭和23年)、李承晩大統領による大韓民国樹立後は、「朝鮮人」は「韓国人」と呼ばれるようになった。従いこの書では今後「韓国」という語を用いる。

    須美子が語ってくれたことによると、須美子は日本の敗戦直後は韓国人の同僚たちから暖かい心で接して貰っていたということである。しかし帰国に際し釜山で船を待っている間の2週間、須美子ら引き揚げ者は集団でテント暮らしをしていたということである。

2010年9月28日火曜日

母・ともゑ (20100928)


  日本が韓国を併合していた時期の歴史は、後の世には日韓両国民によって、左右両極端に偏ることなく、正しく認識されるようになるであろう。信輔が記憶しているように、終戦間際一臣たち一家もそれが暴徒に対処するための訓練だったのか、実際に暴徒がやってきたのか定かではないことが起きていたし、一臣もピストルを渡されていたような緊迫的な状況があったことは確かである。実際信輔の同級生は男装して引き揚げてきている。

    インターネット上には総督府の命令に背いてまで朝鮮人の子供たちの親代わりをし、その深い子供たちに愛情を注いできた日本人の一家が、戦後の混乱期に無残な方法で殺されたという記事が出ている。両親を殺され飢えで死んだ娘・ひみこは哀れだった。

  明治維新後近代国家として歩み始めた日本は、幕末から明治維新後の国際情勢の中で、欧米・ロシア列強に伍し自立自存のため必死に頑張ってきた。武士道精神を楯にして、国際信義を守り、国家間の正式な取り決めを交わしながら、自衛の為、アジア諸国の自立と共栄という大義のため、日本は孤軍奮闘してきた。

    その状況の中で国際コミンテルンによる謀略工作があり、日本はずるずると戦争の深みにはまり、結果として東京裁判で日本は侵略国家の烙印を押されてしまった。その結果、日本人は自分たちの父祖が流した血に目をそむけ、自虐的史観に陥ってしまった。現在70歳代前後になっている人たちは、自分の父祖たちが命をかけて行ってきたことを否定し、東京裁判の結果にまともに批判の目を向けようとはしない。

    その一方で、戦後生まれの世代の人たちの中には反動的に右翼の思想に共鳴する人たちがいる。物事の両極端に正義はない。あるのは私心・私利・私欲だけである。今に至る歴史の中で日本は蟻地獄にはまったように苦しみもがき、結果的に310万もの犠牲者を出してしまった。その中には原子爆弾やB-29による無差別爆撃で死んだ何10万人という一般市民も含まれている。自らそのような犠牲者を出す一方で、日本はアジア諸国の人々にも多大の苦しみを与えてしまった。

    もし、中庸でことを納める知恵があったならば、そのような悲惨な結果になる前に日本は蟻地獄から抜け出すことが出来ていたかもしれない。当時の日本の指導者たちにはそのような力量が足りなかったのである。

    東京裁判でA級戦争犯罪人とされた人たちは、1100 万人ものユダヤ人を毒ガスで殺したナチスドイツの戦争犯罪人と同じような扱いで処刑されてしまった。本来ならば彼らは日本だけではなく、日本が統治していたアジア諸国にも多大な苦しみを与えたという結果の責任を問われて然るべきところである。しかし戦後日本の知識人たちはそのことに無関心であった。それだけではなく同胞の日本人に自虐的史観を植え付けることに熱心であった。

    東京裁判で日本がアジア諸国を植民地にするため侵略したという構図が造られてしまった。しかし日本人が行ったことは「統治国と被統治国の間の契約により‘統治’した土地」を統治したのであって、欧米人の概念にある「植民地」を造るため侵略したのではない。

2010年9月27日月曜日

母・ともゑ (20100927)


    1952(昭和27年)1月18日、大韓民国(韓国)大統領・李承晩は海洋主権宣言を行い韓国政府は一方的に軍事境界線(李承晩ライン)を設定した。韓国政府はこのラインの韓国側に日本の固有の領土である竹島を勝手に含めた。

    韓国政府は海洋資源の保護のためと称してこのラインの内側の韓国付近の公海で、韓国籍の漁船以外が漁業を行うことを禁止した。その本当の狙いは韓国で獨島と称する竹島と対馬の領有を主張するためであるとする説もある。

  韓国政府は一方的に宣言した海洋主権宣言に基づき、これに違反した日本の漁船を臨検し、拿捕・接収した。逃げようとした日本の漁船を銃撃し、船員が殺害されるという事件も起きた。1960年(昭和35年)の李承晩失脚後もこの状態が続いた。1965年(昭和40年)、日韓漁業協定の成立によってラインが廃止されるまでの13年間に韓国が抑留した日本人は3929人、拿捕した船の数は328隻であった。死傷者は44人を数えた。

  李承晩の政府が日本と韓国の間の公海上に、国際的慣例に照らしても違法な軍事境界線を設置し、またその境界線内に日本の固有の領土・竹島を編入したことについて、日本とアメリカ両国の政府は韓国に対し「国際法上の慣例を無視した措置」として強く抗議した。アメリカ政府は竹島をサンフランシスコ平和条約により日本領として残したこと、及び李承晩ラインの一方的な宣言は違法であることを韓国政府に伝えている。このことは1954年に作成された米国機密文書・ヴァン・フリート特命報告書にある。

  竹島は江戸時代から日本の支配が及んでいた島である。韓国の史料の史料に照らしてみれば、竹島は位置的にも島の大きさからも、韓国が竹島を自国の領土と言うのは全く不当である。竹島問題は日本と韓国の間に突き刺さった厄介なとげである。

    竹島問題は、1963年(昭和48年)、李承晩退陣後日韓両国の思惑・相互利益のため棚上げされた。1970年以降突然、尖閣諸島を自国領土と主張するようになった中国も日中両国の思惑・相互利益の上で、中国としては「尖閣諸島は歴史的にも中国固有の領土であるが、棚上げしている問題である」と国際的に印象付けようと考えているのかもしれない。

    韓国第2代大統領・朴正煕は、自国(韓国)の工業化を進めて国を富ませ、南北朝鮮の統一のため資本と技術を他国に求める必要があった。そこで目を付けたのは日本であった。日韓両国の思惑と相互利益のため、竹島問題は棚上げされた。しかし、竹島は韓国により不法に占拠されたままの状態が現在までも続いている。


    国際関係の歴史の狭間で一臣とともゑはそれぞれ人生の一時期、それぞれ一個人として韓国社会に深く関わった。二人は教育という分野で、韓国の子供や青年たちに一定の影響を与えた。それが良い影響であったか、悪い影響であったかの評価は今後の歴史の中で評価されるであろう。すべての物事には正反両面あり、ある時期に‘正’とされ続けてきたことも後世にそれは‘反’であったと認められるようになるものである。

2010年9月26日日曜日

母・ともゑ (20100926)


  ともゑは昭和13年(1936年)3月末から昭和20年(1945年)8月末までの7年間余り、後に大韓民国となる南朝鮮の慶尚北道で暮らしていた。南朝鮮に大韓民国が正式の発足したのは3年後の1948年8月15日のことである。当時南朝鮮では多くの反対を押し切って3ヶ月前の5月10日総選挙が実施され、李承晩氏を初代大統領とする大韓民国が樹立された。その萌芽は既に1919年(大正8年)、彼が上海で亡命政府・大韓民国臨時政府を設立したときに始まっている。李承晩氏は1940年その活動の拠点を重慶に移している。

  大韓民国の‘大韓’は、古代朝鮮半島の南部にあった「三韓」と呼ばれる馬韓、辰韓、弁韓の国々の名称、「韓」に由来している。明治28年(1895年)4月17日に山口県の赤間関市(現在の下関市)で日清戦争後の講和会議が行われた。この講話会議の結果、日清講和条約、通称下関条約(中国では馬関条約)が締結され、締結後李氏朝鮮の第26代国王・高宗(在位:1863年12月13日 - 1897年10月12日)は清国(当時の中国)の柵封支配から離脱することができ、大韓帝国初代皇帝(在位:1897年10月12日 - 1907年7月20日)となった。しかし大日本帝国による大韓帝国併合後、高宗は大日本帝国の王族となり、徳寿宮李太王と称されるようになった。

  李承晩が日本に反感を抱くようになった根本の原因は、日韓併合前後の諸状況の中で起きた日本と韓国との間の確執にある。李氏朝鮮時代末期の1898年(明治29年)、李承晩は李氏朝鮮の親ロシア派政権によって捕えられ、李氏朝鮮が大韓帝国になってからの1904年(明治37年)まで獄中にいた。しかし同年2月8日、日露戦争勃発により釈放された。

    日露戦争は三国干渉および北清事変後満洲を勢力圏としていたロシア帝国の朝鮮半島への南下を防ぐことを目的とした戦争であった。三国干渉とは、明治28年(1895年)の下関条約で日本への割譲が決定された遼東半島を清へ返還するよう、フランス・ドイツ帝国・ロシア帝国の3国が明治28年(1895年)4月23日に日本に対して行った勧告のことである。

    この戦争後、当時の力関係は別として大日本帝国と大韓国帝国との間に取り交わした議定書や第1次から第3次までの協約をベースに、明治43年(1910年)8月22日、「韓国併合ニ関スル条約」が日韓の間で成立し、日本は合法的に韓国を併合している。

    日本による韓国併合の前、当時の大韓帝国の政権は日本が軍事・外交・経済総ての面で大韓帝国に浸透してゆくことに危機感を抱いた。そのため1904年(明治37年)李承晩を釈放し、アメリカに派遣し、アメリカの援助を求めようとしたのである。

    李承晩は時のアメリカ大統領セオドア・ルーズベルトに面会し、アメリカの援助を求めるルーズベルト宛てのハワイ在住韓国人の請願書を提出した。しかし、ルーズベルトは請願書を公式のチャネルを通すよう求めた。このため李承晩は駐米韓国公使館に赴いた。

    しかしそこはすでに日本が押さえており、李承晩によるルーズベルトへの要請は失敗に終わってしまった。彼は日本が大韓帝国を併合後ハワイ滞在中、朝鮮の独立運動に携わり、上海で亡命政府を設立し、昭和20年(1945年)の日本の敗戦を契機に大韓民国を設立した。

2010年9月25日土曜日

母・ともゑ (20100925)


  女学生たちが持っているお握りはそれぞれ2個づつであった。女学生たちはお握りを食べ始めた。そのときちらっと信輔の様子を見た女学生の一人が、お握りを1個信輔に分け与えてくれた。するともう一人の女学生が1個信直に与えてくれた。信輔たちは頭を下げ、女学生たちに顔を向けて丁寧な言葉で「有難うございます」と礼を言った。女学生たちはにこっと微笑んだ。その様子を傍で見ていたともゑは、「御親切に、有難うございます」と礼を言い、信輔たちに「よかったね。このご親切を決して忘れないようにね」と言った。信輔たちは頂いたお握りを両手で持ち、母親の顔を見ながら「うん」と頷いた。

  信輔たちは美味しそうにお握りを食べていた。ともゑはその様子をじっと見ていた。先ほどまで憂鬱であった気持ちも晴れて、手提げ鞄の中からビスケットを取り出し、富久子に与えながら自分も口にした。

  汽車は別府に到着した。ともゑ母子は別府にある借家に向かった。その借家は前々から確保されていたもので、昨年、昭和19年の初冬、幸雄の祝言の時帰ってきたときにも使っていた家である。一臣は大分師範学校を出て以降、長男の身でありながら実家に帰った時でもそこに泊ることは数回しかなかった。ともゑと結婚した後も実家から離れて暮らしていた。そのため何処に居ても別府に自分たちの家が必要であったのである。

  一臣は日本の敗戦前、慶尚北道公立国民学校長を兼ね、柳川国民学校長の補せられ柳川公立国民学校訓導を命じられ、柳川公立青年訓導所主事も嘱託されていた身であったので、直ぐ引き揚げて帰国するわけには行かなかった。一臣の帰国は9月末のことであった。

  ちなみに、昭和20年(1945年)、日本の敗戦直前の8月8日 、ソビエト連邦が日本に宣戦布告し、ソビエト連邦軍が朝鮮半島東北部に侵攻している。8月15日、大日本帝国による朝鮮半島の統治は終了し、北緯38度線以北をソビエト連邦軍が、同以南をアメリカ軍が管轄することになった。

    同年、1945年9月8日、アメリカ軍第24軍団第一陣が仁川に上陸し、翌9日、日本の朝鮮総督府が降伏文書に調印している。それまで一臣はアメリカ軍政下、学校の業務などを朝鮮側に引き継ぐ仕事が残っていたのである。

  同年9月11日、アメリカは在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁を宣布している。アメリカ陸軍司令部軍政庁は10月に朝鮮人民共和国も朝鮮建国準備委員会も承認を拒否している。その後、北朝鮮共産党臨時人民委員会が樹立された。同年12月には、モスクワで朝鮮半島の信託統治について話し合うためアメリカ、ソ連、イギリスによる三者会談が行われた。南朝鮮はアメリカと統治下に置かれた。

    その翌年、昭和21年(1946年)10月1日に慶尚北道の大邱(テグ)でアメリカ軍の軍政に抗議した市民を南朝鮮警察が銃殺した事件が起きた。これに端を発して、南朝鮮全土で230万人が蜂起し、136名が犠牲となっている。日本の敗戦直後はまだ左程混乱はなかったが、その後時を経るにつれて朝鮮半島は戦乱の渦に巻き込まれることになったのである。

2010年9月24日金曜日

母・ともゑ (20100924)


    便所の戸が開かれ誰かが外の様子を窺っていた。やがて静かになった。暫く経ってから一家も客人も家の中に戻った。信輔はその時本当に暴徒がわが家に来たと思っていた。後年その時のことを思い出して、あれは多分、暴徒に備えた訓練ではなかったかと思った。信輔は、あの時の客人は緊急避難訓練の状況を観察し、評価するための役目をもった警察官ではなかったか、それも朝鮮人ではなかったかと思っている。

    日本が戦争に負けたときの状況を信輔は全く覚えていない。覚えていないということは、日本が戦争に負けても醴泉の片田舎ではきっと普段と変わらなかったに違いなく、信輔の印象に残るようなことは起きていなかったということである。もし、信輔の父親や母親が信輔に戦争に負けたときのことを何か語っていれば、信輔はその時のことを例え一時的に忘れていても信輔の頭脳の中で再構成され、記憶としてしっかり残っている筈である。

    信輔が覚えているのは引き揚げの船の中の出来事以降のことである。あれは釜山と博多の間の連絡船であっただろう。船の中は真ん中の通路を挟んで畳敷きのような広い船室があり、乗客で混に合っていた。船はゆっくり大きくローリングしていた。信輔はその通路が誰かの嘔吐で汚れたままになっていたことを記憶している。

    その船の中であったのか、博多に着いた後のことであったのか、信輔は定かに覚えてはいないが、皆に弁当が配られたことを覚えている。弁当は赤い色がしているご飯であった。沢庵か昆布かなにかが添えられていた。赤い色はコーリャンというものであった。それが美味しかったかどうか信輔は覚えていない。多分、それは美味しくもなく、美味しくなくもなかったのであろう。つまり信輔にとってそれはコーリャン弁当という以外、特に印象はなかったのである。コーリャン弁当という言葉はその時誰からか聞いていたのであろう。

  一臣は朝鮮に残ったまま、先ずともゑ母子4人が引き揚げた。母子は博多から汽車に乗り、小倉で汽車を乗り換え別府に向かった。小倉の駅に降りるとき、一人の小父さんがいて、ともゑに「私も小倉で降ります。荷物を持って上げましょう」と言った。2歳の富久子を背負い、大きな旅行鞄を二つ抱え、9歳と7歳の男の子二人を連れて引き揚げて来たともゑにとって、その男の親切な言葉は嬉しかったに違いない。

  駅のホームには先ず信輔が降り、信直がそれに続き、ともゑが旅行鞄を一つ持って降りた。その時ともゑは後ろのめりに転倒してしまった。信輔は背中に富久子をおんぶしたまま仰向けに転倒してしまった母をなじった。その様子を後ろで見ていた男はホームに降りることなく、ともゑから預かっていた旅行鞄を持ったまま何処かに消えてしまった。ともゑはその親切そうな男に騙されてしまったのである。その上ホームで転倒し、信輔になじられ、悲しかったに違いない。ともゑは傷心のまま子供たちを連れて別府に向かった。

  別府に向かう汽車の中は混み合ってはいなかった。客車の進行方向右側の座席に、信輔は窓側、信直は通路側に座っていた。ともゑは信直の隣り、通路を挟んだ席で座っていた。向かいの席に進行方向を背にして女学生が二人座っていた。女学生たちは弁当を広げた。弁当は白いご飯のお握りだった。信輔たちはそれをじっと見つめていた。

2010年9月23日木曜日

母・ともゑ (20100923)


    それは昭和20年(1945年)春、須美子が京城(ソウル)女子師範学校を出て大邱(テグ)の国民学校に教師として赴任する前、慶尚北道醴泉郡のど田舎にあった柳川国民学校の校長官舎に住む義兄・一臣の一家を訪れた時のことであった。校長官舎は校門に近く、校庭の隅に周囲が塀で囲われた中にあった。まだその国民学校では3学期は終わっていなかった。ともゑは3学期から音楽の代用教員を務めていた。


    3学期、その国民学校では日本人は信輔だけであった。鎌田君は父親が転勤したため日本人の生徒は信輔一人だけとなっていた。ともゑは信輔がいる1年生の教室で生徒たちにオルガンを弾きながら日本の唱歌を教えていた。須美子は姉・ともゑの教えぶりを真似ようと教室の後ろでともゑの授業をじっと観察していた。ともゑは「出た出た 月が丸い丸い まん丸い盆のような 月が・・・」という歌を教えていた。須美子はそのときの様子を信輔に語ってくれたことがある。


    須美子は「あのときね、のぶちゃんはとても上手に歌っていたよ。でも、朝鮮人の子供たちは‘盆のような’のところでどうしても上手く歌えなかった。あそこのところは子供たちにとって難しかったのね。」と言い、自分が子供たちに同じ歌を教えるときの参考にしたようである。信輔が詩吟をやっていると言ったとき、須美子は「のぶちゃんには小さい時から音楽の素質があったのよ。」と感心していた。


  須美子が柳川の田舎にいたとき、ともゑが何かのことで須美子に腹を立て、「大邱に帰りなさい!」と須美子の追い出しにかかったが、信輔と信直は須美子の側に立って母・ともゑに反抗していた。結局ともゑが須美子の旅行鞄を庭に投げ戻さなくなったことにより、その騒ぎは収まった。数日後須美子は大邱の自分の宿舎に戻り、新学期から教壇に立った。信輔は2年生になり、信直は柳川国民学校の1年生になった。その学校の日本人の先生は信輔たちの両親だけとなっていた。ともゑは音楽を教える臨時の代用教員であった。


  日本の敗戦の色が濃くなり、世情は不安定になってきつつあった。その時期その片田舎の国民学校でも空襲に備えた避難訓練などが行われていた。その国民学校の校長であり、その地域の青年訓導所の主事でもあった一臣は、日本人は自分たち一家しか住んでいない慶尚北道醴泉郡柳川邑の片田舎で日本の国の方針を一身に背負って頑張っていた。


  その頃一臣は警察からかピストルを一丁渡されていた。何事にも興味津津な性格がある信輔は食卓の上に無造作に置かれていたそのピストルを手にし、引き金に指をかけたことがあった。そのとき実弾は入っていなかったかどうかは分からないが、父親・一臣は血相を変えて信輔を叱りつけた。


    そのような時期、ある日の夜一人の日本人の来客があった。一臣とその客人は町で暴動が起きているという話をしていた。突然何か不穏な状況が起きた。その一臣一家はその客人の手助けで便所の側から塀の外に逃れた。最後に客人が塀によじ登り終わった時、突然家の中に人が入って来て怒声と物音がした。その客人は塀の上に這いつくばったまま息を殺していた。塀の外の一臣達も息を潜めてじっとしていた。

2010年9月22日水曜日

母・ともゑ (20100922)


    話は前後するが、2学期になる前の夏休みに信輔は母親から鍛えられたことがあった。その鍛え方は、学校の校庭の隅にあった井戸端で母親がバケツに汲んだ水を信輔に浴びせ、信輔がグラウンドを走って一周し、戻って来るとまたバケツの水を浴びせ、信輔がまたグラウンドを走って一周して来るというやり方であった。それは信輔が母・ともゑから強制されて行った運動ではなく、母と子の遊びのようなものであった。信輔の母親は転校してきたわが子が、日本人の生徒が鎌田君とわが子しかいない学校で淋しくないようにと遊ばせていたのである。井戸端には大人の女性が一人いてともゑと話をしていた。

    その女性は日本人ではなかったかもしれない。信輔の記憶ではその女性は鎌田君のお母さんではなかったように思う。ある日、母・ともゑとその女性が井戸端で鶏を処理していた。信輔はその女性が騒ぎ立てる鶏を抑えて刃物で首を刎ねたら、その鶏が首のないまま1、2メートル突っ走りバタンと倒れたのを見たことがある。鶏はその晩の夕食のおかずになったに違いないが、信輔はその晩のおかずが何であったかは覚えていない。

    信輔の父・一臣は田舎の学校の校長としてまた青年訓導所の主事として、地域の状況を把握しようと考え、信輔を連れて何軒かの朝鮮人の家を訪問したことがあった。それは信輔が柳川の公立国民学校に転校する前のことであった。その日は信輔も永川の学校に通う必要がなかった休校日であった。

    家庭訪問の道で丸い小山の脇を通ったとき、その小山に穴があった。一臣は「これは狐の巣だ」と信輔に言った。山間の谷間に家が点々とあった。一臣はその中の一軒の家を訪れた。子供であった信輔は父親がその家の主人と何を話したのか、関心もなかったから覚えていない。ただ、その家で出された菓子のことを覚えている。それは白く長方形の形をしていて噛めば形が崩れ落ちるようなサクサクとした歯触りの菓子であった。米で作った菓子であったのだろう。帰路一臣は信輔に正露丸を2錠与えて呑みこませ、自分も呑んだ。

    冬に入る前、ともゑは庭に埋め込んだ壺に朝鮮漬けを仕込んだ。ともゑは朝鮮の人から朝鮮漬けの作り方を習っていて、そのとおりに漬けた。食卓には朝鮮漬けがあったに違いないが信輔は覚えていない。日常のおかずが何であったかということは全く記憶がない。

    しかし非常に印象的であったことだけは覚えている。それは小さい心に興味が深かったことだけである。例えば、ある日信輔は一臣が庭でミツバチを飼ってハチに唇を刺され、唇が腫れあがっていたことや、炭焼きをして木炭を造っていたことや、寒い冬の日に妹・富久子の足の土踏みの部分に霜焼けができて腫れていたとき、一臣は其処に針を刺して血を出して治療したことなどを覚えている。幼い富久子は痛がったに違いない。うっ血した個所に針を刺して血を出し霜焼けを治す方法を、一臣は朝鮮の人に教わって実施したに違いない。針は火に炙り、朝鮮の焼酎か何かで消毒していたことであろう。

   気候が穏やかな日、朝食は一家5人揃って官舎の脇の屋外でテーブルを囲んで食べた。ともゑは子供のおやつにするため砂糖で紅白の模様が付いた飴を作ったりしていた。それは日本が戦争に敗れる3ヶ月ほど前の、朝鮮の片田舎に住む日本人の家の暮らしの一コマであった。

2010年9月21日火曜日

母・ともゑ (20100921)


    信輔は職員室に呼ばれ、校長である父親の前に立たされ強く叱責された。何故か鎌田君は呼ばれていなかった。校長であり、柳川公立青年訓導所主事でもある信輔の父親は、建前として自分の息子が主犯であり、鎌田君は信輔に強要されたためやむを得ず従ったに過ぎないという構図を描き、主犯者に全責任があるという考え方を朝鮮人の教職員たちに示そうと考えたに違いない。その考え方を日本人の教頭・鎌田先生と予め示し合わせていたに違いない。鎌田君は家でお父さんの教頭先生からこっぴどく叱られていた筈である。

    教頭以外朝鮮人である先生方の皆の前で、父親は蠅たたきのような先の柔らかい物で信輔の頭を、「何故そのような行いをしたのか!」と言いながら一発びしりと叩き、「お前は級長だぞ、級長がそんなことをしても良いのか!」と言いながらまたばしッと叩き、「馬鹿もの!」言ってまた叩いた。信輔は初めから無言で父親である校長の為すまま、言うままにしていたが、「もう、このようなことは二度とやってはならんぞ!」と言われたとき初めて口を開き「はい」と素直に一言だけ答えた。その様子を職員室の朝鮮人の先生たちは黙って見ていた。信輔は放免された。以来、信輔は鎌田君とは遊ぶことはなく、朝鮮人の同級生たちと遊んでいた。しかし、永川の学校にいたときのような楽しいことはなく、信輔が73歳になっても懐かしく想い出す5歳年上の新井玄観のような友達はいなかった。

    校長室で叱られた日の夕方、家で校長対生徒ではなく父対子となった時、一臣は信輔に笑顔を作って「もうあんなことはもう絶対してはならんぞ」と諭した。信輔は職員室での屈辱感を思い出しながら「うん」と一言言っただけで後は何も言わなかった。ともゑも信輔の行為を許しがたいと考えていたのか、信輔は母親からもかばってもらったという記憶は全くない。もし「物事の善悪の判断の正しさ」と「屈辱感」とを天秤にかけたら、信輔にとって「屈辱感」の方が重かった。しかし、その気持ちはやがて信輔の心の深層に畳み込まれ、長年思い出すことはなかった。

    その年、昭和19年(1944年)の初冬、一臣一家は一臣の弟、つまり信輔の父方の叔父・幸雄の祝言で又四郎の家に帰った。そのときの集合写真に写っている信輔は父・一臣からも母・ともゑからも離れた端っこに独りぽつんと立って写っていて、その表情は淋しげである。子供ながら1年生の2学期の学校生活は面白くなかったのであろう。

    翌年、昭和20年(1945年)春、須美子は京城(ソウル)女子師範学校を繰り上げ卒業して教師として赴任する前に義兄・一臣と姉・ともゑの家にやって来た。須美子はそこがとても辺鄙な田舎であったことを後年信輔に語ってくれた。その時丁度春休みで信輔は2年生になろうとするときであり、信直は小学校(当時国民学校)に上がろうとするときであった。信直は4月1日生まれなので学校は信直と一級違いである。

    ある日、ともゑは妹・須美子の態度を怒って須美子を家から追い出そうとした。ともゑが須美子の旅行鞄などを庭に投げ捨てた。すると信輔と信直がそれを拾って家の中に入れた。ともゑはそれをまた庭に投げ捨てた。すると信輔と信直がまた拾い上げて中に入れた。

2010年9月20日月曜日

母・ともゑ (20100920)


    母子は家に帰る途中、松林の中に入り、おやつを食べるのが楽しみであった。信輔はおやつを食べながら学校での出来事や放課後玄観らと遊んだときの様子などをともゑに報告した。先生方は年長の玄観らに信輔のことをよく見守るように言ってあったに違いない。小学校1年生の男の子の汽車による通学については、駅長以下職員たちも信輔をよく見守るように手配されていたに違いない。天候が悪い日にはともゑは駅まで信輔を迎えに来ていた。そのような手厚い見守りがあって、1学期末までの短い期間ではあったが信輔は汽車通学を無事続けることができていた。ともゑは信輔を途中で出迎えるようにし、松林の中に入っておやつを広げ、わが子の成長の状況を観察していた。

    そんなある日、いつものようにおやつを広げて母子団らんのひと時を過ごしているとき、信輔の小さな腕に蟻が這い上がって噛みついたらしく、その腕に点々と水膨れのようなものができたことがあった。ともゑは「ああ、大丈夫、大丈夫」と言って何か膏薬のようなものを塗ってくれた。水ぶくれはいつの間にか治っていた。

    1学期が終わった日、信輔は汽車がまだ完全に停止しないうちにホームに飛び降り、転んで軽い怪我をしてしまった。多分信輔は鉄道の関係者がまだ動いている車両からホームに降りる様子を見ていて真似しようと思ったに違いない。駅長は慌てて一臣に電話を入れた。怪我は大したはことなく、膝に擦り傷ができただけであった。

    信輔のそのような冒険心は信輔がまだ4歳のときに発揮されていた。大邸に住んでいたころ、信輔は道路わきの自分の背丈よりもかなり高い場所にあった石垣の上に建っている塀の下の狭い場所を、両手を広げて塀を抑えながら移動したことがあった。信輔は下の道路に転落せず無事移動できて得意になっていたが、後でともゑから厳しく注意された。

    幼いころからあった好奇心は生涯続くらしい。信輔は73歳になった今でも好奇心は旺盛である。信輔が中学生になったとき、信輔は大変危険な行為をしている。それは乙津川にかかっている鉄橋の上で、走る列車の客車のデッキから隣りの客車のデッキに手足を伸ばして移動したことがある。当時は客車は蒸気機関車が牽引していた。デッキから顔を出し、前方の機関車を見ながらデッキからデッキに渡ったのである。それは一度だけであった。

  話は横道にそれたが、信輔の汽車による通学は第一学期だけで終わり、信輔は父・一臣が校長を務める国民学校に転校した。その学校は鎌田君を除いて同級生は全員朝鮮人であった。それまで鎌田君が級長をしていたが、二学期から信輔が級長に命じられた。

    その年の秋のある日、級長になったばかりの信輔は鎌田君と一緒にその学校の校庭の脇にある台地の上に登り、そこで育てられていた梨園の中に入った。梨がよく熟れていた。信輔は鎌田君と一緒にそれぞれ一個づつもぎ取って食べた。信輔をその梨園に連れて行ったのは鎌田君であった。「梨が熟れている、食べよう」と言いだしたのも鎌田君であった。信輔たちが無断で梨畑に入り、梨をもぎ取って食べている様子を誰かが見ていて職員室に告げられた。校長の息子が盗みを働いたのであるから大問題であった。

2010年9月19日日曜日

母・ともゑ (20100919)


  柳川は醴泉郡の田舎の邑である。柳川公立国民学校の敷地内に校長官舎があった。永川から其処に引き越すとき、信輔と父・一臣は引越し荷物を運ぶトラックの助手席に乗って移動し、信輔の母・ともゑと弟・信直、妹・富久子は汽車で移動した。その時、信輔は8歳になったばかりであり、信直は6歳、富久子はまだ2歳になっていなかった。

 後に信輔の妻となった幸代の叔父・正造は当時19歳で鮮鉄(朝鮮総督府鉄道局の略称)の機関士として乗務していたが、もしかしたらともゑ達が乗った汽車の機関士は正造であったかもしれない。正造は終戦前にたまたま公務で日本に帰っていたので、終戦時の混乱を免れることができた。正造が後年韓国旅行をした際、当時の鮮鉄の韓国人の仲間と再会し旧交を温めたという。

    ある日、正造が運転していた汽車が前方から誤って走行してきた汽車に正面衝突され、正造は急ブレーキをかけたが間に合わず、前方から突進して汽車は正造の機関車の上に乗り上げ、相手の機関士(日本人)が死ぬという重大事故が起きてしまった。そのとき正造は憲兵隊に逮捕され、冬の寒い最中牢獄に入れられ、便所も我慢することがあったような辛い日々を送っていた。しかし2週間ばかりして正造は無罪放免された経験をもっている。

    信輔は柳川への移動するときの朝鮮人の運転手が温厚な優しい人であったことを記憶している。信輔は左側の窓際に肩を寄せてちょこんと座っていた。一臣はなるべく信輔の方に身を寄せ、運転の邪魔にならないようにしていた。トラックが川に架かっていた橋の上を走る時、窓から川面がきらきら輝いているのが見えた。

    トラックは夕刻近く柳川国民学校の校長官舎に着いた。官舎には既にともゑ達が着いていて一臣と信輔の到着を待っていた。新校長の受け入れ準備は教頭の鎌田さんが行ってくれていた。一臣達はトラックから引き越し荷物を降ろし、一段落して鎌田さんの家に挨拶に行った。鎌田さんの家では夕食の支度を整えてくれていた。一家は鎌田さんの家でおかずとして卵焼きが1個付いていた夕食を頂いた。天井に暗い電灯が1個ぶら下げっていた。

    鎌田さんの子供に信輔と同じ年の男の子がいて、信輔の遊び仲間になった。ただ、遊ぶときは週末など学校が休みの時に限られていた。と言うのは柳川への引き越しは新学期が始まった1ヵ月後の5月のことなので、信輔は、信輔は既に永川の国民学校に入学していて、柳川の校長官舎から通学していたからである。

    信輔は国民学校に入学したとき7歳であった。同級生に5歳も年上の新井玄観という朝鮮人の同級生がいたが、信輔は玄観を兄のように慕っていた。玄観は信輔たちをよく遊びに連れていってくれた。川辺のポプラ並木のところで遊んだ時、玄観はそのポプラの小枝で笛を作って信輔に与えてくれたり、何処かの家の軒下から雀の卵を採り出して、その卵をネギの筒の中に割って入れて火にあぶり、信輔に食べさせてくれたりしていた。

    信輔が下校し汽車に乗って帰り駅を出て歩いていると、前方からともゑが乳母車に信直と富久子を載せ、おやつを持って迎えにきてくれていた。

2010年9月18日土曜日

母・ともゑ (20100918)


  信直がコピーして送ってくれた写真には信直が母・ともゑに抱かれて微笑んでいる写真がある。ともゑは信輔と信直の二人の子供を授かり人生で最も幸せな時期を送っていた。その頃のことになると信輔の記憶も確かなものになっている。ある日ともゑは夫・一臣との間に何かいさかいがあって家を飛び出したことがあった。家を飛び出したものの感情が収まって直に戻ってきている。それは大邱(テグ)に住んでいた頃のことであった。

  大邱の家には大邱に部隊があった陸軍の将校が一人、ホームステイで泊ったことがあった。その将校は日本刀を抜いて電灯の下にかざし、一臣となにやら会話を交わしていたが、信輔はその将校が無口な男で、一臣は接待に苦労しているように見えた。

  その頃家に須美子は居なかった。須美子は大邱高等女学校2年生のとき転入試験を受けて別府高等女学校に転校している。ともゑは須美子が初めから別府女学校を受験しなかったことについて須美子を叱っていたという。須美子は別府高等女学校の入学試験に受かる自信がなかったので受験しなかったと述懐している。

  昭和16年(1941年)3月、一臣は慶尚北道の永川南部公立尋常小学校勤務となった。尋常小学校という校名は翌月、公立国民学校という呼び方になった。翌17年(1942年)、一臣は永川公立青年訓導所の指導員を嘱託された。

  一臣は永川の官舎に朝鮮人の女学生たちを多数招待し、日常の生活に関することを実地に指導していた。ともゑは茶や菓子を出して彼女たちを楽しませながら、夫の仕事を手伝っていた。

  ちなみに信輔の妻・幸代が子供のころ、大家族のなかで一番末の妹のように扱われていたが、幸代の母方の祖父・要造は食事のとき必ず子供たちに箸の上げ下げの作法のことまで細かく指導していたという。幸代にとって齢があまり離れていない‘叔父・叔母’たちが玄関を上がる時履物を無造作に脱ぎ放しにしていると、「こらッ!照子ッ!」などとよく叱っていたという。今の時代、そのような厳しい躾をする親は極めて少なくなっている。

  昭和19年(1944年)5月、日本が徐々に敗戦に傾きつつある頃、一臣は慶尚北道公立国民学校長兼柳川国民学校長兼柳川公立国民学校訓導を命じられ、柳川公立青年訓導所主事も嘱託され、非常に多忙になったが非常に張り切っていた。

  その年の11月、一臣は一家を引き連れて弟・幸雄の祝言のため一時、又四郎の家に帰ってきている。祝言は又四郎の家で行われた。座敷にお膳が並べられ、祝言を上げた後戦地に往く弟、つまり信輔の父方の叔父の結婚を祝った。その時の集合写真がある。それは信直がコピーして送ってくれたものである。その写真に一臣一家5人も写っている。ともゑは1歳の富久子を抱いている。一臣は父・又四郎の横でちょび髭を生やして写っている。

  実は一臣が師範学校を出て初赴任した学校で校長が髭を生やしているのを見て、一臣はその校長に面と向かって「髭を剃れ」と言ったという。そのことが、一臣の師範学校の同級生の弔辞の中に書かれている。当の本人が校長になって同じことをしたのである。その時一臣は35歳、若いのに偉くなったので、威厳を作る必要があったのであろう。

2010年9月17日金曜日

母・ともゑ (20100917)


    一臣、ともゑ、信輔、須美子一家4人は大邱で平穏な暮らしをしていた。別府の文造の家では貴金属の商いも順調に進み、後妻と二人だけで暫く平穏無事な生活が続いていた。しかし文造は以前から持病の腰を悪くしてしまい、店を続けて行くことが出来なくなってきた。そこで文造は店で使っていた人に貴金属販売の商権を譲り渡した。そして別府市内のちょっと大きめの木造2階建て住宅を借りてそこに転居した。

    それは昭和14年(1939年)のことで信輔が2歳半のとき、丁度年末年始の期間であった。その期間でないと朝鮮からともゑや須美子が引越しの手伝いに帰ってくることが出来なかったからである。引越しの手伝いに、当時満州の建設会社に勤めていた弟・業政も帰ってきた。業政は大邸に立ち寄り、初めて甥っ子・信輔に会った。ともゑはと業政と須美子ともに信輔と信直を連れてその転居先の2階屋に帰って来た。その時一臣は仕事の都合で帰っていない。

    年が明けた昭和15 年(1940 年)の正月、信輔は祖父・文造に手を引かれて街中を歩いたことがあった。それは信輔にとって母方の祖父と過ごした唯一の懐かしい記憶である。路地で円座になって遊んでいる女の子たちがいた。お正月ということもあって文造の家は賑やかであった。信輔は2階から階段を足を踏み外して転げ落ちた少女を見た記憶がある。

    3歳にはまだなっていない男の子の記憶としては強烈な印象のことしか残っていない筈である。記憶は大人たちとの会話を通じて増幅される。しかしそれも断片的なものである。信輔は母・ともゑから「おじちゃんと一緒にお散歩して楽しかったねえ」とか「何か面白いことを見ましたか?」とか言われて、印象深かったことを答えていたであろう。段々大きくなるにつれて自分を散歩に連れて行ってくれた人が誰であったか、印象深かった事象がどういうものであったか心の中でその時どきの状況が構築されてゆくものである。

    ともゑは別府に帰っていたときの出来事について息子・信輔と何度か会話を交わしていたに違いない。その年か翌年に祖父・文造が70で死に一家は皆葬式に帰っている筈であるが、信輔にはその記憶が全くない。写真でもあれば記憶が構築されるのであろうが、その写真もない。そこのところが不思議である。信輔には悲しい出来事は敢えて記憶しないという特性が、すでにその時から備わっていたのかもしれない。

    実は信輔が17歳になるときまで家族が写っているアルバムを自分の手元に置いていた。そのアルバムには信輔が覚えている母・ともゑの写真が何枚かあったが、信輔はどれも破って灰にしてしまっている。当時の信輔の心理としては自分の過去を総て消してしまってその時点から自分独りで未来だけに目を向けて人生を歩もうという思いがあった。今手元にある何枚かの母・ともゑが写っている写真は、信輔の要請を受けて弟・信直が所持している写真をコピーして送って来てくれたものである。

    ただ、信直が所持している写真は限られたものである。信輔が焼き捨ててしまったものは元々父・一臣が作成していたものであったから、祖父・文造が写っている貴重な写真もあったに違いない。今思えば真に馬鹿なことをしてしまったものだと信輔は後悔している。

2010年9月16日木曜日

母・ともゑ (20100916)


  文造が再婚したので、ともゑと須美子の国東での生活は1年間ほどで終わり、別府の家に戻った。須美子は継母に良く可愛がられていた。しかしともゑは継母との折り合いが悪かった。別府に戻ったともゑは自立して家を出たいと考えていた。ともゑは父・文造の仕事を手伝いながら代用教員の職を探していた。しかし別府ではなかなか代用教員の職は見つからなかった。教員の採用人事は別府市の視学の権限であった。須美子が高等女学校に上がる前に、姉・ともゑに見合いの話が持ち上がった。

  大分県の視学は県内の教員の状況を把握する責任があった。ともゑが国東の尋常小学校で代用教員として採用されたという情報は当然、県視学に把握されていた。視学は今の教育委員長のようなもので、学事の視察や教育の指導・監督を行ない、教員の人事にも関与する。当時の視学は岩尾という人でともゑの親戚筋の人だったので、ともゑの身上について深い関心があった。ともゑの状況を知り、何とかしてやらねばと考えていた。

  岩尾視学はともゑを誰かと結婚させ、生活を安定させてやろうと考えた。一臣が昭和3 年(1928年)に大分師範学校を出て玖珠郡の野上尋常高等小学校を皮切りに大分郡内の尋常高等小学校訓導としての勤務成績や大分県公立青年学級助教諭を兼務して実績を上げていることに目を付け、一臣の実家の家柄も悪くないことを知って、一臣がともゑの結婚相手としては申し分ないと判断した。そこでともゑを一臣に引き合わせることにした。

  見合いは貴金属店を営むともゑの父・文造の家で行われた。文造夫婦とともゑが支度を整えて待っているところに岩尾視学が一臣を伴ってやってきた。形通りの挨拶が交わされ、岩尾が一臣の人となりについて話した。文造は、一臣が実直で頭が良く、なかなか気骨のある男であり、将来必ず大成する人物でると見込んだ。須美子のことは自分の後妻が面倒を見てやれる。ともゑをこの男にやれば何の憂いもなくなると思った。縁談はトントン拍子に進んだ。一臣の両親、つまり信輔の祖父母・又四郎とシズエもともゑに会い、一臣の嫁としてともゑを迎え入れることに全く異存は無かった。

  ともゑと一臣の祝言は別府市内の料亭で行われた。そのとき須美子はどういうわけか独りで留守番をさせられた。須美子の話によれば、父・文造はもし須美子がその祝言の席に行けば多分面倒なことになると判断したのではないかと言う。

  昭和11年(1936年)春、一臣はともゑと所帯を持ち、翌12年5月長男・信輔が生れた。ともゑは信輔を産むとき一臣の家に滞在していた。ともゑの実母・まさが、ともゑが15のとき他界してしまっていたから初出産のときは不安であったが、9人もの子供を産んだ経験のある義母・シズエの温かい思いやりや手助けは非常に有難かった。

  その翌年昭和13年(1938年)、一臣は朝鮮慶尚北道に出向を命じられ一家は朝鮮に渡った。そのとき須美子も一緒に朝鮮に渡った。一臣は慶尚北道公立小学校訓導を命じられ、大邱(テグ)公立尋常小学校に勤務することになった。須美子は義兄・一臣と姉・ともゑのもとで大邱(テグ)高等女学校を受験して合格し、その学校に入学した。

2010年9月15日水曜日

母・ともゑ (20100915)


  ともゑは大正2年(1913年)、安田文造と妻・まさの長女として生まれた。文造の父、つまりともゑの祖父・幸人は熊本藩士で御船奉行をしていた。その妻、つまりともゑの祖母は岩といった。江戸時代から明治時代の初期にかけて女性の俗名は‘お’を付けて呼んでいたから、岩は‘お岩’である。‘お岩’と言えば四谷怪談に出てくる名前である。ちなみに、信輔の新宅の有馬家に信輔が子供のころ‘おかめ’お婆さんがいた。‘かめ’という名前に‘お’を付けて‘おかめ’という愛称で呼ばれていた。しかし信輔の父方の祖母は本名が‘マチ’で通称は‘シズエ’であった。現代ではそのように本名(仏式の俗名)と通称が異なる例は少なく、大概‘ちゃん’付けを通称としている。

  ともゑの祖父・幸人は武士であった。信輔はこれまでずっと思い続けてきたことがあり、これからも自分の最期の刹那まで思い続けるであろうことが一つある。それは、母・ともゑが33歳という短い生涯を終えるに当たり、息子・信輔に対して武士の生き方と死に方は如何にあるべきであるかということを、自らの身をもって示したのだということである。

  ともゑの祖父であり信輔の母方の曾祖父である幸人は、幕末のころ‘鶴崎番代’という熊本藩の飛び地の総責任者の下で、熊本藩の藩士として参勤交代の船団の船の警備などを担当していた。鶴崎番代は1年交代であったが、幸人は鶴崎に何年も前から住んでいたと思う。ともゑの弟、つまり信輔の母方の叔父・業政は戦前満州の建設会社で働いていたが終戦でソ連に抑留された。その時安田家の系図を逸失してしまった。業政も他界してしまっている。このため、幸人が何年前から鶴崎に居住していたかということは分からない。

  鶴崎港には参勤交代で熊本藩主が乗る御座船・波奈之丸以下引船、御馬船、御荷船などの藩船など常時100隻余りの船で賑わっていた。幕末に勝海舟が坂本龍馬を伴って、鶴崎に立ち寄って一泊している。その時次の歌を作って遺している。「大御代は ゆたかなりけり 旅枕 一夜の夢を 千代の鶴さき」。幸人は勝海舟や坂本龍馬に会ったことがあるかもしれない。

  幸人は明治維新後平民となり別府に移住している。平民となったとき相応の御下賜金があり、その金で貴金属を商うという‘武士の商法’を始めた。しかしその商売がうまく行っていたかどうかは分からない。本格的に貴金属販売店を経営したのは文造のときである。

   信輔の母方の祖父・文造は別府市内で店舗付きの平屋住宅を借りて貴金属類の商いをし、結構繁盛していた。信輔の母・ともゑは別府高等女学校に通学していた。そういう時、文造の妻、つまり信輔の母方の祖母・まさが病気で死んでしまった。一家の状況が変わった。

   ともゑは高等女学校を卒業すると直ぐ、まだ小学校に上がらない幼い妹・須美子を連れて親戚を頼って国東に行った。国東で親戚の家などを転々しながら職探しをいた。親戚もあまりいい顔はしなかった。そうこうするうちに運よくある小学校の代用教員になることができて親戚の家を出、幼い須美子を養いながら薄給で暮らしていた。

   一年ほど経って父・文造が再婚した。ともゑは須美子を連れて別府の父・文造の家に戻った。

2010年9月14日火曜日

母・ともゑ (20100914)


  信輔がお経を上げるとき信直も傍に座って一緒に経を読んでいた。「門前の小僧習わぬ経を読む」諺のとおり、お経を上げていてもその経の内容や意味について理解しているわけではなかった。ただ、ひたすらに経を上げていたのである。ただ「歸命无量壽如来(きみょーむりょーじゅにょーらいー)南无不可思議光(なーもーふーかーしーぎーこう)法藏菩薩囙位時(ほーぞーぼーさーいんにーじ)在世自在王佛所(ざいせじーざいおうぶっしょ)」と、ご院家様のお経の上げ方を真似て高低長短の節をつけてお経を上げると気持ちが良かった。特に気持ちが良かった幾つかの句があった。例えば「萬善自力貶勤修(まんぜんじーりきへんごんしゅー)圓滿徳號勸専稱(えんまんとくごーかんせんしょう)三不三信誨慇懃(さーんぷさんしんけーおんごん)」という下りなど特に気持ちが良かった。お経を唱えていて気持ちが良かったから、お経の中身は全く知らなかったが73歳になった今でも信輔は部分的に覚えているのである。

  信輔はお経を上げても母に会えるとは思っていなかった。ただ仏壇の前に座りお経を上げると何故か心が安らいでいたことは覚えている。子供心に何か満たされないものがあったのであろう。母が亡くなったという現実を受け入れていなかったのではないかと思う。

  当時57歳であった信輔の祖母・シズエは9歳を頭に7歳、3歳、1歳の子供たちの母親代わりをしていた。シズエは病死した3人の子供を含め9人の子供を産み、育てたうえに、母を失った4人の子供をまた育てねばならなかった。信輔は子供時代、母の死を受け入れぬまま母が居る子供のようにしていることができたのは、祖母・シズエのお陰であったと思う。

  信輔は子供のころのことであったのでおぼろげながらしか記憶は残っていないが、シズエは病院から見放され死の床についていた嫁・ともゑの背中を拭いてやっていたり着替えをさせてやったりしていた。信輔にともゑは「起こしておくれ」「背中をさすっておくれ」と言っていたが、シズエは信輔の知らないところで誰かの世話なしでは起きることもできなくなっていたともゑの下の世話もしていた筈である。その期間は1ヵ月ぐらいのことであっただろう。病院に入院してすぐ手術を受け、治癒の見込みもなくなって病院を出るまでの期間も2ヵ月ぐらいのことであっただろう。信輔が記憶しているのは、ともゑが入院していたのは夏から秋にかけての頃であった。少なくとも真夏ではなく、また寒い時期でもなかった。

  農家としても忙しい時期にシズエは信輔以下の子供の世話もしなければならず、死に前の病人の世話もしなければならなかった。そういう時期、嫁いでいるシズエの娘たち、つまり信輔の叔母たちも時々在所に戻ってきては何かと手伝っていた。特に、近くに住むマツエはよく手伝っていた。

  信輔の母は有馬家の長男・一臣に嫁いで来たが信輔のお産んだ時以外その家に住むことはなく、小学校の教師である一臣と一緒に住み、夫・一臣が朝鮮慶尚北道に転勤となったときも一緒に朝鮮に渡っていた。夫の家に住居を移したのは終戦の年、昭和20年(1945年)8月の終わりごろから翌年1218日に死んだときまでの僅か1年半だけであった。

2010年9月13日月曜日

母・ともゑ (20100913)


  ともゑは線香に火を付け両手を会わせながら「お父さんを呼んできておくれ」と言った。信輔は裏の山に枯れた松葉など落ち葉を掻き集めに行っていた父親の一臣を呼びに行くため走った。子供ながら母親の異変に気付いていた。信輔は息せき切って一臣に「お母さんが、お母さんが、お父さんを呼んできてと言っているよ」と告げた。

  一臣は作業を中断して急いで家に戻った。信輔も父親と一緒に走った。一臣がともゑの床に駆け付けたとき、ともゑは既に息を引き取った後だった。ともゑは信輔を父親のもとに走らせた後、東に向かって手を合わせそのまま倒れた。異変に気付いた義母、つまり信輔の祖母・シズエがともゑの傍にかけつけ、倒れたともゑを床に寝かせ、近所や親戚に急を知らせるように手配した。一臣と信輔が戻ってきたとき、ともゑの床の傍に祖父・又四郎や祖母・シズエや新宅のおかめお婆さんらがいた。一臣はともゑの姿をみて号泣した。

  信輔は母親が死んでしまったことを理解できずにいた。ただ呆然としているだけであった。信輔の祖父・又四郎の家に親族やともゑの妹、つまり信輔の叔母・須美子が駆けつけてきた。近所の人たちも集まってきた。皆、遺された信輔や信直やまだ幼かった富久子や赤子の哲郎を見て憐れんでいた。哲郎は乳飲み子であったが母親の乳房は無くなっていたので重湯で育てられていたのである。ともゑは三つになったばかりの富久子や自分のお乳を与えることができなかった赤子を遺し死んでゆかなければならない運命を悲しんでいたに違いない。しかし信輔は自分の母親が死んだのに人ごとのように振る舞っていた。

  葬式には信輔の同級生の母親である専想寺の脇寺の住職のご院家(いんげ)さんが来てお経をあげてくれた。ともゑは正座して両手を合わせた形で棺桶に入れられた。棺桶に入れるとき又四郎が「お経を上げればともゑの身体が柔らかになる」と言っていた。

  ともゑを入れた棺桶は叔父たちに担がれ、家の前方、約100メートル先の墓地に運ばれ、予め穴が掘られていたその中にそっと置かれ、土がかぶされた。その真中に一本の竹の筒が立てられ、その周りに大きめの石ころが沢山積み重ねられた。叔父たちは塩で手を清め、ともゑの葬式は終わった。翌年、2歳になった哲郎が母親の後を追うように死に、ともゑの墓の隣りに同様の墓が造られた。ともゑと哲郎の墓は長年その状態に置かれたままだった。

  ともゑの葬式の夜は凍るように寒かった。空には二つの星の間に三日月がかかっていた。信輔の祖母・シズエの甥にあたる丹生の小父さんは須美子と一緒に空を見上げている信輔に「あのように二つの星の間に三日月がかかっているのは不吉なしるしだ」と話していた。

  翌日から信輔は仏壇の前に座ってお経を上げるようになった。それは『正信念佛偈(しょうしんねんぶつげ)』というお経で、「歸命无量壽如来(きみょーむりょーじゅにょーらいー)」と唱え始めるお経である。信輔はいつの間にかこのお経の全文を暗唱して唱えることができるようになっていた。あるとき新宅の博小父さんが仏壇にお参りにきてくれて、信輔に「お経を一生懸命お経を上げちょれば、きっとお母さんに会えるけんの」と言ってくれたことがあった。信輔は「はい」と素直に答えて、また一生懸命お経を上げ続けていた。

2010年9月12日日曜日

母・ともゑ (20100912)


  鶴崎臨海工業地帯には製鉄会社、石油会社、石油化学コンビナ-トなど日本の基幹産業の工場が建設され、そこで働く従業員及び家族が鶴崎地方に流入して人口が急増し、かつてののどかな田園地帯は住宅地となって一変してしまった。信輔や洋介や芳郎ら別保小学校、鶴崎中学校が同級生である竹馬の友の故郷は、それぞれの記憶の中にしか存在しなくなった。特に、信輔や洋介や貞行ら東京近辺の都会地に住んでいる者たちにとって、故郷はとても懐かしいものである。貞行とは江藤貞行のことである。神奈川で建築関係の会社をやっていて座間に住みついている。皆同じ鶴崎中学校3年7組の同級生たちである。

  今から57年前の昭和28年(1953年)3月、大分市鶴崎町立中学校から377名の少年・少女たちが巣立ち、町内の普通高校や工業高校、大分商業高校などに進学した。県外の高校に進学した者もいたし高校に進学せず働きに出た者も多かった。

  今年4月、地元の同級生の呼びかけで有志50数名が別府で1泊2日の同級会があった。そのとき幹事から物故者50名がいることが報告され、懇親会に先立ち一同黙とうした。同級生は校区内には120余名、大分市内に80余名、県内に20余名残っており、残りは県外に住んでいる。東京近辺には男女半数づつ20名ほど住んでいる。皆、子供時代から少年少女時代を豊かな田園地帯で過ごしている。特に、県内に残った多くの同級生たちは二十歳代の前半ごろまで田園地帯で過ごしている。鶴崎中学校を昭和28年に卒業した377名の生徒たちのような経験をしている例は、全国的にみても珍しいのではないかと思う。



  信輔は自分の子供時代、少年時代、青年時代のことを回想している。その中で特に信輔が9歳の時、乳がんで死んだ母親の死に際のことをいつも思い出している。信輔の母親は死に際まで身をもって信輔に生き方と死に方を教えてくれていたのである。

  信輔の母・ともゑは義父・又四郎の家の居間の隣の四畳半の部屋で死の床に就いていた。両方の乳房は切り取られて無くなっていて、背中にはがんの転移のしこりが沢山できていた。相当苦痛を感じていた筈である。しかし、ともゑはその苦しみを信輔に見せることは一度もなかった。信輔が見ていないところでは苦痛に顔をゆがめ、泣いていた筈である。

  信輔は度々「お兄ちゃん」という声でともゑに呼ばれていた。信輔がともゑのところに行くと「起こしておくれ」とともゑが言うので信輔はともゑを抱きかかえるようにして起こしてやっていた。すると「背中をさすっておくれ」という。信輔がこぶだらけの背中をさすってやると「ありがとう」と言ってしばらく床から起きたままにしていた。信輔は母親・ともゑの苦しみを子供ながら分かっていたと思うが、痩せ細り一面こぶだらけになっている母親の背中を、無言でたださすってやるだけであった。そんなことが何度かあった。

  ある日、ともゑはいつものように「起こしておくれ」と言い、信輔がそのようにしてやると今度は「東に向けておくれ」と言う。その通りにしてやると、「御仏壇から御線香をもって来ておくれ」と言った。信輔は無言でそのとおりにしてやった。

2010年9月11日土曜日

母・ともゑ (20100911)


  入学式は4月である。信輔は5月生まれである。従って入学のときは満7歳である。信輔が母親に連れられて朝鮮の慶尚北道から日本に引き揚げてきたのは終戦の年の8月、小学校2年生のときであった。その時は満9歳になっていた。一方、洋介は8月末生まれであったので、終戦の時はまだ満8歳だった。数えならばお互い同じ9歳であった。お互いもう73歳にもなって先はそう長くはない。いずれあの世にゆく。

  信輔は「昔はね、俺も前ばかり見ていたよ。今は、後ろばかり見るようになった。」と今の心境を洋介に話した。洋介は他の竹馬の友と違い70を過ぎてようやく初孫を得た。女の子だった。そこで息子には「頑張ってもう一人男の子を産ませろ」とけしかけているそうである。その一方でできるだけ長生きしようと頑張っている。数年前から膝の関節の具合が悪くなり、それをなんとか直したいと今日も医者に行ってきたという。信輔は「俺の弟・信直も君と同じように膝をやられている。ヒアルロンサンとか何かの注射を打ってもらっているらしいよ。」「実は俺も今日それを打ってもらって来たんだ」と洋介は笑いながらそう言った。信輔は母・ともゑのことに話を持って行った。

  「君のお母さんはいつ亡くなったのか?俺はあの頃そんなことは全く知らずにいたなあ」と洋介が言った。信輔はともゑの死に際の状況を洋介に話して聞かせた。「俺は母上(はあじょう)のことを小説に書こうと思うんだ」。

   信輔は以前、中学・高校校時代の恋のことを題材にした短編小説を書いてブログで公開していた。その小説には洋介も芳郎も別名で登場させている。そしてその小説のコピーを当時の竹馬の友数人に渡してある。勿論、洋介にも渡してある。その小説の中で恋の相手は洋介も芳郎も良く知っている同級生であるので、信輔もそれらの女性にはコピーを渡すことはできずにいる。しかし、彼女らも風の便りに信輔が自分を登場させた小説を書いたことを聞いているに違いない。

  信輔は洋介からの「また、いいのが出来たらコピーを送ってくれ」という要求に、「ああ、そうするよ」と言って、久しぶり洋介との会話を終えて電話を切った。

 

  信輔や洋介や芳郎らが子供の頃過ごした土地はその昔、摂関家の領地であった豊後高田庄と言われていた大分県の鶴崎地方である。その鶴崎地方の臨海部に工業地帯を造成する構想は戦前からあったが、昭和30年代(1955年代)に入って具体化し、昭和32年(1957年)8月に大分・ 鶴崎臨海工業地帯造成計画が決定され、11月には 兵庫パルプ鶴崎工場 ( 鶴崎パルプ)が操業に入っている。

  昭和34年(1959年)10月には 大野川左岸から大分川左岸まで1,066万㎡が埋め立てられ、昭和35年(1960年)から39年(1964年)にかけて、九州石油、富士製鉄 ( 新日本製鉄 )の進出が決まり、昭和39年(1964年)には、九州で初めての製油所である九州石油が日産4万バーレルで操業を始めている。

2010年9月10日金曜日

母・ともゑ (20100910)


   今年の夏の暑さは異常で北海道や青森など東北地方の北部を除き連日30度以上、それも35前後が殆どで、場所によって37度、38度という高温の日が1ヵ月半も続いている。9月に入って台風が日本海を回り東北地方を横切ってオホーツク海に抜けた日は北寄りの風が吹き込んで涼しかったが翌日にはまたいつもの暑さがぶりかえした。天気予報ではこの暑さも12日以降は幾分和らぐということである。

  このところ信輔は久しく会っていない竹馬の友、洋介のことが気になっていた。電話してみようと思いながらずるずる今日まで経ってしまった。信輔が半年ぶりに洋介に連絡をとったきっかけは信輔が今朝見た夢であった。信輔は今朝明け方母・ともゑの夢を見て目が覚めた。夢の内容は覚えていないが間違いなく母の夢であった。

  ともゑは信輔が10歳の時、日本がアメリカとの戦争で負けた翌年の昭和21年12月18日、33歳の若さでこの世を去った。1年前の8月、ともゑは信輔ら子供3人を連れて朝鮮から引き揚げて信輔の祖父にあたる義父・又四郎の家に身を寄せたが、そのときともゑの乳房には異変があったに違いない。その年の9月末に信輔の父である夫・一臣が朝鮮人の同僚たちに仕事の引き継ぎを終えて引き揚げてきた。その後昭和21年の正月を挟んで、戦地から信輔の叔父たちも次々帰還してきて又四郎の家は急に大家族になった。そういう状況の中でともゑの乳房のしこりが目立つようになり、ともゑは親戚筋にあたる別府の内田病院に入院した。その時は既に手遅れの状態であった。

  洋介は千葉の松戸に住んでいる。「お・げ・ん・き・で・す・か?」「お、おー、有馬か、ま、なんとか生きていているよ、毎日暑いねー」。有馬は信輔の名字である。洋介の名字は内田である。信輔と洋介は小学校のときからお互い名字だけで呼び合っていた。同じ竹馬の友でも‘君(くん)’づけで呼ぶ友もいる。鈴木芳郎に対してはどういうわけか小さい時から「よしろうくん」と呼んでいた。鈴木、佐藤、犬の糞(くそ)というほど鈴木とか佐藤という名字は多いのでそう呼んでいたのか、芳郎君の家は大資産家であったため子供ながら敬意を表してそう呼んでいたのか定かではない。

  「俺、今朝、母上(はあじょう)の夢を見てね。急に君に電話したくなったんだ。さっき君が前に送ってくれた子供のころの写真を取り出してみて見たんだ」。洋介のところでは夕食も終え、内縁の妻の立場である美千代さんが電話の向こうで何やら言っている声が聞こえる。洋介は信輔の子供の頃のことを聞いてその頃のことをいろいろ確かめたくなった。

 竹馬の友といっても、信輔や洋介や芳郎がお互いの家を行き来して遊んだのは信輔が終戦後別保小学校に転校した昭和20年9月以降のことである。しかしお互い子供の時のことなので良く覚えていない。洋介は信輔と一緒に別保小学校に入学したと思い込んでいた。

  「小学校に入ったのは数えで8歳、満で7歳」と洋介が言う。「違うよ、満8歳だよ。」と信輔。「ん?俺たちは昭和12年生まれ」。「そう、1937年だ、戦争が終わったのは昭和20年、1945年だ。そのとき俺は9歳だった」。信輔も頭の中がちょっと混乱してきた。

2010年9月9日木曜日

東京裁判(補足)(20100909)


 この「東京裁判」というタイトルでの記事を昨日で終わらせるつもりであったが、男は孫たちに日本の近代史を勉強してもらいたく、これまで公開した記事のうち東京裁判の部分を抜き出し、補足を加えてまとめた。以下は、その補足の部分である。


 東京裁判(正式名称「極東国際軍事裁判」)では、南京虐殺が正当化された。勿論、日本軍による不条理な殺人行為が全くなかったといえば嘘である。しかし「鼻を削ぎ、耳を削ぐ」といった残虐行為を日本軍が組織的に行ったという事実はなく、全くのでたらめである。

 日本軍は南京攻略にあたり「オープンシティ」を提案し、大量のビラ撒いたがたがシナ軍は応じなかった。「オープンシティ」とは「これ以上攻撃すれば市民に被害がでるから町を明け渡せ」ということである。日本軍が撒いたビラは東京裁判では採用されなかった。南京郊外にある中山陵(ちゅうざんりょう)という孫文を祀った丘がある。支那事変で日本軍はその丘に大砲を置き、世田谷区ほどの広さの南京に向かって砲撃すれば一番命中しやすい。しかし日本軍は其処は孫文の墓がある場所であるためその丘は使わなかった。

 いわゆる南京事件というものはシナ軍の敗残兵によって引き起こされたものであった。敗残兵が上記のような残虐行為を行った。それを日本軍のせいにされてしまった。

 戦後、中国は東京裁判の結果を最大限に利用した。中国は南京大虐殺紀念館、中国での正式名称は「侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館」を建設した。

 この南京大虐殺紀念館の建設にあたり、「元日本社会党委員長であった田辺誠は1980年代に南京市を訪れ当館を建設するよう求めた。しかし当初、中国共産党は資金不足を理由に建設には消極的だった。そのことから同氏は総評から得た3000万円の建設資金を南京市に寄付し、その資金で同紀念館が建設された。3000万円の資金のうち建設費は870万円で、余った資金は共産党関係者で分けたという。また記念館の設計は日本人が手がけた。」(「」内はWikipedia記事)。

 中国はこの記念館を中国人の愛国教育に最大限に活用している。その中で掲げられている写真の多くは偽造されたものであることが分かっている。

 日本軍が敬意をもっていた孫文について、8日付の読売新聞によれば、上海万博の日本館で中国革命の先駆者とされる孫文(1868~1934年)と、盟友で多額の資金援助をした長崎出身の実業家・梅屋庄吉(1868~1934)の交流を紹介する特別展が開かれ、2万人以上が足を運ぶ人気企画となったということである。

 このようにして日中両国間で間違った歴史認識が徐々に是正されてゆけば喜ばしいことである。


 マッカーサーは朝鮮戦争を指揮し、原爆を使うことを提案して当時のアメリカ大統領トルーマンから解任された。

 朝鮮戦争から呼び戻されたマッカーサーは上院の軍事外交合同委員会で「Their purpose, therefore, in going to war was largely dictated by security (彼ら(日本人)の戦争に入った目的は、主として自衛のために余儀なくされたものである。)」と証言した。これは東京裁判における東條の主張と全く同じである。

 靖国神社にA級戦犯の方々が祀られている。A級戦犯の方々には確かに結果として悲惨な戦争をやめさせることが出来ず310万人の戦争犠牲者を出してしまった責任がある。

 戦争犠牲者310万人のうち兵員は230万人、一般市民80万人である。兵員230万人のうち約5万人は現在の韓国・北朝鮮及び台湾の人たちである。

 しかもこの兵員230万人のうち玉砕で戦死した方々、南方の島々で飢えと病気で亡くなった方々、特攻隊で亡くなった方々が非常に多い。

 A級戦犯という扱いは不当なものであったが、国の指導者たちがこれほど多くの犠牲者を出した責任は重い。そういう意味で彼らは靖国神社に祀られるべきではなかったと思う。祀られるならば、国として別の然るべき社を建て、そこに彼らの霊を祀られるべきである。そのようにすれば、国家の命令で戦地に送られ、死んでいった方々を内閣総理大臣が国家を代表して、堂々とお参りできる筈である。別に立てる社への参拝は、個人個人の宗教観に基づいて行えばよいことである。


 日本国政府として公式に東京裁判の結果を受け入れているが、時代も変わり、世代も変わり、考え方も変わってきている。

 何処の国でも自存自衛の権利はある。近代の日本はマッカーサーが証言したように、自存自衛のため行動したのである。その結果、蟻地獄に陥ったようにずるずる最悪の事態まで行ってしまったのである。

 日本がとった自存自衛のための行動は間違っていなかった。国会議員の立法で東京裁判の結果の見直しを行い、近代の日本が取った行動は決して間違っていなかったと決議すべきである。その一方で、日本がとった行動の結果、中国、韓国、北朝鮮、東南アジア諸国の人々に多大な苦痛を与えてしまったことを率直に認めればよいのである。

 近代日本が列強諸国とのせめぎ合いのなかで自存自衛のためとった行動の結果、ずるずる深みにはまり込んでしまった。そのことについてある大学の教授が「それを侵略と言うんだ」と声を露わにして田母神元航空幕僚長を非難した。自民党の石破氏までもが田母神氏を非難した。

 日本人は東京裁判の判決が間違っていたことを知り、自虐的史観から立ち直り、自存自衛のため命を懸けて戦い、死んでいった人たちに感謝の気持ちを持ち、未来に向かって正しい歩みをしなければならない。日教組など若い世代や子どもたちに間違った歴史観を植え付けようとする連中は、国賊である。

2010年9月8日水曜日

東京裁判(エピローグ)(20100908)


 男はこのタイトルで毎日少しずつ勉強したことを書いてきたが、今日はその結論を書く。昨日母のことを中心に私小説を書くと宣言したが、それは明日から本格的に取り組むことにする。そのためこのタイトルを終わらせることにした。

 日本人の近代史観、とくに明治以降日本が中国や朝鮮と関わった歴史観については、最左翼に自虐的史観があり、最右翼に皇国史観があると思う。自虐的史観は東京裁判の判決を正しいものとし、中国や朝鮮に対して日本は悪いことをしたという思想である。一方、皇国史観は東京裁判の判決は勝者側が敗者・日本に憎しみと憎悪を表したものであって、日本は先の戦争では中国や朝鮮や東南アジアの近代化に良いことをしたという思想である。何れも正しくない。日本は引くことを知らぬため、ずるずる深みにはまっただけである。

 清朝末期、中国は欧米・ロシア列強の餌食になっていた。東南アジアは欧米列強の植民地であった。中国大陸に日本が進出したことについて、日本が欧米・ロシア列強と同じことをしたし、そうしなければ日本の安全は保たれないという理屈はあった。当時の状況としてそれは正しい理屈であり、日本だけが侵略者扱いされることは不公平である。

 しかし東京裁判の判決では敗者・日本だけが悪者扱いにされ、A級戦犯とされた東条英機、板垣征四郎、土肥原賢二、松井石根、木村兵太郎、武藤章、広田弘毅、7人の指導者たちは絞首刑に処せられた。しかもそれはナチスドイツの指導者の犯罪と同列の犯罪者として扱われた非常に不当なものであった。

 Wikipediaから引用;絞首刑になった7人の判決理由は次のとおりであり、全く不当なものであった。これには原爆投下というアメリカの犯罪を隠すためであったという見方がある。

東條英機:第40代内閣総理大臣・・ハワイの軍港・真珠湾を不法攻撃、米国軍隊と一般人を殺害した罪

板垣征四郎:満州国軍政部最高顧問・・中国侵略・米国に対する平和の罪

土肥原賢二:第12方面軍司令官・・中国侵略の罪

松井石根:中支那方面軍司令官(南京攻略時)・・捕虜及び一般人に対する国際法違反

木村兵太郎:、ビルマ方面軍司令官・・英国に対する戦争開始の罪

武藤章:第14方面軍参謀長(フィリピン)・・一部捕虜虐待の罪

広田弘毅:文民、第32代内閣総理大臣・・南京事件での残虐行為を止めなかった不作為の責任

 Wikipediaに東條英機のことがいろいろ出ている。彼は「前へ前へ」の一点張りで引くことを知らぬ面があった。統帥の中枢にありながら陸海軍一元化の統帥ができなかった。彼の取巻き(憲兵)が彼に反抗するものを左遷し予備役に入れる措置をとったり、徴兵し2等兵として前線に送ったりもした。

 男はもし小沢氏が首相になれば似たような状況になるのではないかとふと思った。ただ軍人である東條には潔癖さはあり、「金と数」をたのむような面は全くなかった。

2010年9月7日火曜日

東京裁判7(20100907)


 男は今朝母の夢を見た。その内容は忘れた。母は男が10歳のとき、終戦の翌年(昭和21年(1946年)の12月18日、乳がんで死んだ。男は「あの世」に行く前に、是非、母のことを中心に、できるだけ事実に基づき、事実がはっきりしないことは多少の想像も含めて、小説的に書き遺しておきたいと思った。それは一般に公開し、男の子や孫の世代、その先まで、男の母のことが語り継がれるようにしたいと思った。

 何故、そうしたいのか。男は命の永遠性を確信しているからである。現世に生きる男は、あと10年前後の間に、或いはもっと先に、「この世」を去り、「あの世」に逝く。男は「あの世」で母に会え、父に会え、祖父や祖母たちに会え、叔父や叔母たちに会えると確信している。皆、男が子供のころ、男を暖かく見守り、愛してくれた人たちである。

 男が子供のころ過ごした土地は昭和45年(1960年)ごろから鶴崎臨海工業地帯及び周辺の住宅地域として急激に都市化され、子供のころの田園風景は全く無くなってしまった。しかし、男が昭和28年(1953年)中学校を卒業したときの同級生たちは約3分の2、約200名が当時の鶴崎校区や大分県内に居住している。小学校・中学校を通じて友達、‘竹馬の友’であった人たちもその地に多く居住している。東京近辺に住んでいる竹馬の友も数人いる。皆、齢73歳になっている。

 今年の4月末、別府のパストラルホテルで同級生50数名が一泊して有志の同級会が開かれた。57年ぶり顔を合わせた同級生が多かった。かつての女子中学生たちも年老い、中には座椅子でないと座れなくなっていた人もいた。かつての男子中学生たちも皆老人になった。57年ぶりに会って、話しているうちにようやく往時の面影を思い出す状況であった。

 男は母の思い出を中心に小説を書き遺しておくことは、非常に大きな意味があると思った。女房にこのことを話したら、「また忙しい仕事ができましたね」と言われた。それはそうであるが、このような小説を書くと言うことは男の生き甲斐でもある。

 さて、昨日に引き続き「東京裁判」について、要点をピックアップして書く。

 盧溝橋付近で起きた最初の発砲については、シナ(支那)軍の偶発的発砲とか、日本軍の自作自演説とか、中国共産党の陰謀説など諸説があったが、少なくとも実包をすべて封印して演習中の日本軍がはるかにかずの多いシナ軍を挑発して戦闘を誘発するような行為を仕掛ける理由は全くなかった。

 発砲は偶発的であり、その目的もわからなかった。その結果、小規模な戦闘が行われ、その間には停戦の折衝も行われた。しかし停戦協定はシナ軍によってすべて破られた。

 シナ軍による発砲事件が繰り返されるうちに、昭和12年(1937年)7月29日に北京の郊外にある通州で日本人200人以上が虐殺される事件が起きた。これを契機に日本軍とシナ軍との全面的な衝突へと発展していった。

 後日わかったことは、発砲事件は蒋介石の国民党軍に潜り込んでいた共産党員によるものであったことである。毛沢東の陰謀であったのである。そのことにつては明日続きを書く。